居酒屋「大文字」

 

「あらァ〜 ヒバラさん!」

格子戸を開けて店に入ると、客と話をしていたアヤミちゃんが私の顔を見るなり、満面に笑みを浮かべて即座に私の名前を言い当てた。

8カ月も前に、2〜3度顔を出しただけの私の顔と名前を憶えていたその能力に驚き、嬉しく思った。

その店は長崎市の中華街の外れの小道にひっそりと佇む小さな居酒屋「大文字」で、ガラスの引き戸を開けて店に入ると、左手に5〜6人程度のカウンター席と右手に僅かなスペースの小上がりが一つあるだけの小ぢんまりとした居酒屋であった。

店は、背がスラッと高く縦縞の和服が良く似合う上品な感じのママの和子さんと、いつもワンピースを着て明るく良くしゃべる接客係りのアヤミ(絢美)ちゃん、奥の厨房を独りで取り仕切っているオバアちゃんの3人だけで成り立っている。

場所が飲み屋街の銅座から離れているため通りすがりの客は殆どなく、常連客が相手の居酒屋である。

「大文字」に初めて行ったのは昭和38年の8月で、当時の三菱造船の研修生として月給1万8千円を貰いながら京都大学工学部機械工学専攻の修士課程に在学中で、会社から夏季実習として長崎造船所に行くことを命じられ、2週間の予定で長崎を訪れたときのことである。

大学の同じ研究室にいて、2年早く長崎造船所に勤務していたO先輩に連れられて行ったのが「大文字」であった。「大文字」という店の名前と落ち着いた雰囲気に魅せられて、2週間の滞在中に2〜3度この店を訪れた。

翌年昭和39年の4月に正式に長崎造船所に配属され、早速「大文字」を訪れたときの状況が冒頭の記述である。それ以来、「大文字」は私の息抜きの場所として毎日のように足を運んだ。

その年の夏の或る日、サマータイムが適用されて時計が1時間早くなっている上に定時も1時間早く午後4時に会社を出て寮に帰っても所在なく、直ぐ街に出掛けたが、足は自然に「大文字」に向かっていた。

店の格子戸を開けて入ると、案の定、店の中は未だ 森閑 として誰も居ない。すると、奥の厨房からおばあちゃんが現れて、
「店が開くまで二階でゆっくりしなさい」
と言って、二階に案内してくれた。

二階には四畳半くらいの大きさの和室が有って、そこに胡坐をかいて、おばあちゃんが届けてくれた徳利に入った酒とつまみをチビリチビリやりながら、
「なんと家庭的な居酒屋なんだろう」
と、おばあちゃんの親切に感謝しながら店が開くのを待った。

「大文字」の常連客には、長崎造船所に勤務する人が多かった。なかでも、50歳代のF部長は和子ママにぞっこんで、いつも金魚の餌を手土産に持ってやって来た。

自分より二つ年上でボイラ工作部にいた東大出のSさんは、和子ママの娘の慶子さんがお目当てで良く店に来ていたが、その内二人は結婚してしまった。

和子ママは「琵琶湖周航の歌」が大好きで、良く一緒に唄った。歌と言えば、酔いが回ってくると、小上がりで仲間のKさんの音頭で「湖畔の宿」や「お座敷小唄」などの替え歌を、割り箸でコップの縁を叩きながら唄ったものである。

夏の暑い夜は、店を閉めたあと、和子ママとアヤミちゃんと飲み仲間と一緒に茂木の先の宮摺海水浴場に行って、浜辺に寝そべって星空を眺めて過ごしたものだ。

その「大文字」は、平成の世を待たず和子ママが高齢になったため店を閉じ、今は一帯は再開発されて店の面影も残っていない。残っているのは、若い頃 の懐かしい思い出ばかりである。(完)

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