人生という廻り舞台で大根役者を演じる我々も、その長いようで短い人生の間に三回ほど、ほめられると言う。一回目は、たらちねの母からこの世に生まれた時である。かわいい、かわいいとほめてもらえる。自分ではわからないが、これは遺伝子のなせるわざである。一人では生きていけない赤ん坊は、親の愛にすがらないと生きていけない。だからこのころは誰でも精一杯かわいらしくなるのである。これが遺伝子なのである。余談になるが、一昔前の女の子が可憐で可愛かったのは、男の愛を頼っていたからといえる。今は男なんぞいらない、トウチャンなど邪魔と、一人で生きていける時代になった。だから、別に可愛くなくてもいいのだし、男をひきつける必要もなくなった。だから美人が少なくなったのである。(こんなことはカアチャンには言ってくださるな。
ナイショ、ナイショですぞ。)
二回目にほめられるのは結婚式である。だれでも秀才であり才媛に化ける。成績優秀にして品行方正なのである。これは真っ赤なウソである。通信簿の成績は二項分布でつける。みんなが成績抜群などとは、とても採点出来ない仕組みになっている。多くの人は、並か並以下で出来のわるいワルがきだったのである。
最後の三番目にほめられるのは、PPK(ピン、ピン、コロリ)でつつがなく黄泉の國に旅立つお通夜の席である。『惜しい人を…。これからという時に…。いい人だった』と、ほめられるのである。『ウソをつくな。そんなことはない』と言いたくても、口がきけないのだから仕方ない。甘んじてそれを受け入れて耐えるしかない。そのまま、それらの言葉を持って旅立たねばならない。このあたりが大根役者の大根たる由縁であろう。
しかしながら、こんなウソが三途の川の渡しで通じる筈がない。ウソと見破られて差し戻しの出戻りとなる。すると折角すっきりとPPKだったのに、モタモタと此岸でウロウロし、彼岸にわたるにわたれなくなる。さすればこそ本当はどうだったかという、このエヴィデンスを持参して身の潔白をあかさねばなるまい。かくして、このPPK想い出文集は、こういう時に役にたつのである。PPKのみぎりには、白帷子と杖の横に、このPPK想い出文集を添えてもらえばいいのである。これを見せれば事実が実証出来る。三途の川の中からあらわれる女神さまに『お前の落としたものは、この金の斧かえ。それともこの銀の斧かえ』と問われる前に、これを見せれば『お前は正直ものである。だから、ご褒美にキレイなお姐さんがいる黄泉の國の昭和寮5棟に入れてあげます』とご宣託を賜る筈なのである。
おのおのがた、またそこでお逢いしませうぞ。再見(サイチェン)、再見(サイチェン)。
