昭和寮の思い出
原(成冨) 正則
  昭和寮は小生にとって人生初めての寮生活であり短い(昭和39年4月から41年3月までの)2年間でしたが今ふりかえってみると思い出が走馬灯のように蘇ってきました。
そのいくつかを書いてみました。

1.実習の合間の堂崎工場への半日ピクニック
昭和39年5月ある日
連休明けて現場実習の後半が始まった。特殊機械部に配属が内定していた小生にとっては二度と経験できない船の現場(予定では多分立神だった)での実習を楽しみにしていたが、3重工合併に反対の全造船三菱支部長船分会は船の製造現場を重点的に拠点ストライキ打つこと頻繁で、非組合員である見習甲をそうゆう危険な場所での実習はさせてはいけないという会社の方針で急遽予定変更となり、前半に引き続き幸町の第一工作部第二機械工場での実習となった。メンバーは村岡さん、松浦さん、小生他3名の6名だったと思う。
(すっかり忘れてしまったので名前を思い出せない)
実習中にも長船分会からの時限ストライキの指令は頻繁でその都度実習生は工場の詰所に集合しては指導員の三浦技師(現 佐藤造船副社長?)の漫談講議を聴かされていたが、この日突然小生達の鬱憤を晴らしてやるためか、三浦技師が「成冨以外の皆は2度とチャンスがないだろうから、堂崎試験場(当時は第二機械工場管轄の魚雷の発射試験とロケットエンジンの燃焼試験を実施していた。)を見学させてもよいがどうするか」と皆の希望を聞かれたので異口同音に「行きます」という事になり昼食もそこそこに宝町の長崎バスのバス停で乗車し 住吉、赤迫、道ノ尾、長与の岡郷を経て塩床でバス(この間約30分)を降りて、そこの岸壁から社船に乗換えて船上で揺られる事約20分塩床の突端を廻って漸く堂崎試験場に到着。そこでは液体ロケットエンジンLS-A(これが30数年後のH2ロケットへと開発されていくのだが)の燃焼試験準備の点検、魚雷の水中発射試験の調整をされていた。ひととうり見学を終えて社船で塩床まで送ってもらいその後は現地解散で直退という事になり、塩床から昭和寮への帰りは自由行動で帰り道に失敬した近くの農家の果樹園の果物のおいしかった事が思い出される。その後昭和42年頃からロケットエンジンの燃焼試験場は名航の管轄となりロケットエンジンの大型化に伴いメインの燃焼試験場は角田、田代へと移っていき、魚雷の主発射試験場は鹿児島へと移っていった。
歴史は降って平成14年1月のある日、航空業界団体への働きかけを依頼に学生時代の親友の谷岡航空・宇宙事業本部長を訪問した時に、彼が言った「H2Aロケットエンジンの原点は堂崎だよ僕も本部長として堂崎に視察に行ったよ」の言葉が懐かしかった。

2. ポンコツ「ダットサン」で鳥栖の田舎までの練習ドライブへ付き合ってくれた友人達
昭和40年4月ある日
免許は持っているが実地運転経験の殆どなかった小生が一大決心して「鳥栖の実家まで練習ドライブに行くので一寸危険を伴うが誰か同乗してくれないか」と声をかけたところ、同室の村岡さんと石井さん、森棟さんが付合ってくれる事となった。車種は職場の先輩達と共同所有のポンコツのダットサンである。 昭和寮を出発したのは10時ぐらいだった。辛うじて長崎市内を通り抜け諫早、大村をどうにか過ぎて川棚にさしかかった時、突然お巡りさんが手を挙げて止まれの合図をするので「何事か」と停車したところ、免許証提示を求められ「何をそんなに急いでいるの。スピードの出し過ぎが交通事故の最も多い原因だからね。」との温かいアドバイスをきいて無事佐賀県に入り嬉野、北方、江北を通り渋滞で有名な佐賀市内に入って、しびれをきらして脇道に入った途端後輪を田圃に落輪させ、4人の人力でようやく復帰したりしながらもどうにか鳥栖市内の実家にたどり着いた。その夜は田舎料理を食った後は狭い8畳の部屋で4人雑魚寝。
翌日は小生が地元でありながら今まで見学できなかった地元唯一の上場企業久光製薬Mや九州三共工場を三菱造船の社員が見学にきましたので宜しくと守衛さんに無理強いして見学できた。その後は近く旧家の松田さん(一年後小生の仲人をお願いすることとなるのだが)宅の庭園を眺めたり、三ッ沢ピクニックセンターに立ち寄ったりりしながら、どうにか昭和寮まで帰れて同乗の3人やっと胸をなで下ろした事だろう。

3.結婚式で司会してくれた友人 出席してくた友人
昭和41年3月21日(小生の誕生日)鳥栖での結婚披露宴
出澤さん、石崎さん、松沢さん他数人(他の出席してくれた人はは思い出せないが)前日から駆けつけてくれて、実家での田舎の親戚、隣組や友人達の宴席にも相伴してくれ、披露宴当日は出澤さんの名司会ぶりに後日田舎では流石は三菱造船の人はすごいなという評判だった。当日は全員で鳥栖から板付飛行場(今の福岡空港)まで旅行の見送りに来てくれ、それから長崎まで自動車を運転して帰られたとか本当にお疲れ様でした。
昭和41年3月30日 長崎での職場の披露宴
村岡さんに司会をやって頂き、森棟さん、前原さん、徳永さん、後藤さんらに出席して頂いた。急遽出席できなくなった石井さんが、ぎ装中の船上から披露宴の会場へお祝いの電話をしてくれた事が印象に残っている。

4.最近の出来事
その後小生は昭和53年11月、東京へ転勤となり重工での定年を迎え、関連会社のリョーインへ移籍となり、そこで平成8年から外販専門の顧客開拓を担当する事になったが、それ以来、赤尾さん、北村さん、福中さん(旧姓中村)中川さん、出澤さん、大山さん他多くのかっての昭和寮の仲間に助けられました。同期の桜とは有難いものだと皆さんに感謝の気持ちで一杯です。今後とも宜しくお願いします。
以上