1.序章
昭和39年3月末に大学を卒業し、同4月、(株)三菱造船に入社した。その当時は、この会社が合併し、日本一の重工業、(株)三菱重工業になろうとは夢にも想像していなかった。関東関西の会社に行きはぐれたとは言え、指導教授の机の中に眠っていた募集要項の会社に、たまたま応募して、幸いにも入社した結果は、学科先輩にも恵まれ、中々面白い会社であった。そのことはともかく、初めて九州を離れた田舎者は、本州とは想像を絶する大都会が並んでいるものとばかりに勝手に思い込み、ようやく空の白みかけた寝台列車の窓から見える景色は、何と山の中ばかり続くものかと訝った記憶が鮮明である。入社のための東京本社集合教育に赴く途次の思い出であった。さて、代々木会館中心の入社教育の後、暁の超鈍行’急行玄海’に乗り込んだ長崎への道中は、別途詳細に語られているので、ここでは触れないことにする。
私の配属部門は、研究部であった。60数名に及ぶ新入社員は殆どが設計部門と現業部門への配属であり、これら事業部門配属者に関する数々のエピソードは、既に数々の資料により語り尽くされているので、私が触れるまでも無い。私は、寮での同室者と研究部門配属諸氏に関するエピソードを紹介するのを、前提に話を進める。
研究部門の同期入社は、朝田氏(強度)、香川氏(振動)、佐伯氏(溶接)、嶋北氏(流体),武藤氏(材料)、森孝子嬢(電算)、林(電算)の7名であったと記憶している。朝田さん、香川さん、佐伯氏のお三方は兄貴分であり、あまりハメは外されていなかったと確信する。いずれも昭和寮5棟に入寮され、同室の同期がおられるので、寮に於ける生活上のエピソードはそれらの方々の証言を待つ事にしょう。
2.同室者
わたしの同室は徳永氏であった。徳永氏は、長崎市内出身であり、本人が希望すれば、3ヶ月程度の入寮で、退寮することが出来るとの話であった。彼とは、若さにかまけて色んな話をした記憶が残っている。その中の逸話の一つを紹介する。私は、それまで妙齢の女性と会話した記憶も無い程に、女性関係には初心であったが、有ろうことか、彼の恋愛相談に乗らざるを得ない状況になってしまった。種々話を交わす中に、前向きに交際を進展させるためには、寮外で生活するのがベターではなかろうか、との結論が得られた。これが主要な引き金になったのかどうか、彼は3ヶ月程度で退寮してしまった。その後の経緯までは、判然としない。しかし、彼が、もし釈然としないまま退寮したのであれば、未熟であった私の喋りすぎを、この場で徳永氏にお詫び申し上げたい。
さて、徳永氏の退寮により、私はかなり早く二人部屋に一人で生活する状態になった。徳永氏は、きちんとした生活態度を保持される性格であったため、彼の在寮中は、私もきちんとした寮生活が送れたと記憶している。しかし、一人生活が始まると、徐々に地が出始め、室内が徐々に荒れ始めた。敷きっぱなしの蒲団、や、酒は飲めないのに何故かごろごろ転がっている酒瓶、雑然とした机上、色模様の多い人生指南本の並んだ棚、等枚挙に暇は無い。この状況の要因の一つを作り出したのが麻雀である。
3.麻雀愛好者
私事になって申し訳ないが、当時の麻雀環境を振り返って見る。私は、大学の4年から始めた麻雀が面白くてしょうがない時期に有った。当時の勤務は、午前8時から午後5時まで、然も、見習中の残業等は持っての外との空気が強く、帰寮して風呂に入った後には、自由時間が多く存在した。現今の新入社員の実態からは想像も出来無いゆとりの多い時期であった。但し、心有る同期諸氏の中には、いずれ始まる業務への対処努力を怠らない諸氏も居られたと確信するが、私はつい怠惰に流れる悪習に染まり、始めは寮の娯楽室で愛好家諸氏の帰寮を待ったものである。
この時の麻雀愛好家は、白石氏、松田氏、赤尾氏、石崎氏、中村氏(現福中氏)、岡部氏、嶋北氏、後に、故岡田氏、他であった。始めの内は、2卓も出来る盛況であったものの、長崎の土地感が育ち、酒(と女性?)の誘惑が強まるにつれて、常設は1卓になった。その内、冬が到来するにつれて、5棟の一階(1棟?)にあった娯楽室の寒さを感じ出すと、私の一人部屋が格好の設置場所になり果ててしまった。すなわち、客は変われども主は変わらず、の状態が出現した。寝床を挟んで設置した卓の中に、小さな火鉢を持ち込み、休みの前日と言えば徹夜麻雀となり、肝心の休みの朝には、他の要因は無いのに、太陽が黄色く見えたものである。これはいかんと、夕食には銅座のはずれに在る、老舗中島にうなぎを喰らいに行った記憶がある。今は過ぎし、元気な懐かしい想い出となった。
入社後、1年程経過する頃、ある事件が発生した。それは、私が帰省して寮に戻ってみると、ドアが開放状態になっていた。確か閉めて出たハズだがと、訝って聞き回ってみた。すると、夜中遅く帰寮した麻雀仲間が、私がいないのは怪しからん、と激しくドアを叩き、酒の勢いでドアの取っ手を壊した可能性が一番高いと言うことになった。麻雀に毒された人間がドア等閉めて、閉鎖的になってはいけないことを身に染みて感じた時期でもあった。これを機に、私自信の引ッ込み思案的な性格が、随分と開放的に向かったと記憶している。
なお、麻雀には、後の話がある。私が退寮した後、徐々にメンバーが減ってしまったため、休みの前日の晩は、私の家に押しかけられ、徹夜麻雀となった。寮では、幾ばくかの稼ぎを残していたが、家庭では、明け方になると負けに陥る状況が続いた。在寮中の稼ぎ等、何処かに吹っ飛んでしまった。やはり、身を固めると、勝負勘が損なわれることを、身を持って感じた時期でもあった。
本章の終わりに、ご批判を覚悟の上で、各氏の麻雀寸評を、衰えつつある記憶を手繰り、紹介する。
白石氏:くよくよしない、恬淡とした雀風。
松田氏:聴牌の喜びを隠せない、すなおな性格丸出し型。
赤尾氏:深く静かに潜行し、大満貫を仕留める雀風。
石崎氏:満面笑顔で、ユーモア溢れる広島弁の危険予知型。
中村氏(現福中氏):全てに落ち着いた穏やかな、オーソドックス型。
岡部氏:即断即決タイプで、慌しい雀風。
嶋北氏:後述。
故岡田氏:酒の飲み振りと同じく、良くも悪くも豪快そのもの型。
4.研究部同期入社
次いで、研究部の同期諸氏への印象を紹介する。研究部へは、私を除いては、会社の技術発展に大いに寄与することを期待された錚々たるメンバーが入社した、と思われる。
始めにお断りしておくが、諸氏への印象は、あくまで私の勝手な思い込みであり、実体であるかどうかは別であり、もしも皆様の心象を曇らすことになれば、伏してお許しを願います。
先ず、
朝田氏にはすらりとした長身に白哲のダンディズムを漂わした印象を受けた。多分仕事振りもそのようであったと聞いているし、その後若くして東大への転身を実行されている。昨年、研究所のエレベータの中で、全く偶然にも、既に白髪の佇まいを見せる朝田さんに出くわした。研究所の招聘により、強度研究室への技術指導で来社されていたのである。朝田さんは、私の顔は忘れておられたが、すぐに思い出され、懐かしく、会話を交わすことが出来た。余談ではあるが、朝田さんの奥さんは、私と一緒に仕事をした才媛であって、当時、彼女を見染められていたこと等知る由も無かったこと、不覚の至りであった。
香川氏は、私と同じく、計装研究課(入社当時の職制)への配属であった。所属係は違ったが、同じ大学の先輩でもあり、その明るさと気さくさから、業務上の指導や相談に良く乗ってもらった。又、その後、九大に転身されるまで、船舶振動に関するソフト、システム開発の仕事をさせて頂いた。私の学術能力の低さから、この時期の成果を有効に活用出来たかどうか、又、ソフトの発展に期待された尽力が出来たかどうか、自信の程は無い。処で、昨年機会を得て、香川教授の教官室を訪問させて戴き、積もる話に花を咲かせた。教官室は、十畳ぐらいの部屋に,教授一人が居られ、隣室には秘書さんが詰められ、パソコン操作を始めとする教授の雑事を引き受けられる体制になっていた。さすがに、若き日の教授の雰囲気は秘書さんへも引き継がれ、何かアットホームな感覚を醸し出されていた。
佐伯氏は、溶接分野であったのと、比較的早くに事業所に転身されたので、業務上の印象は薄いが、当時ふっくらとされた色白のお顔とにこやかな接し方のせいか、きっとやさしい性格の人だな、との感を受けた。休憩時間に、無線の話を伺ったような感覚は何処かに残っているが、無知な私には、その内容は消えてしまっている。
嶋北氏は、顔が大きく声がでかいのと掛けていたメガネのためか、如何にもごつく、取っ付き難い印象を持った。然し、ハイカラな一面も有し、大学で自動車部に所属していたことから、当時、数少ない乗用車保持者の一人であった。しかし、麻雀仲間にもなったことから、意外に接し易い人になった。確か、入社して始めての業務出張は、彼の仕事で開発したロケット飛行に関するソフトを筑波の研究所に納入することであった、ことを思い出す。このソフトの多くのサブルーチン名が随分読み難いなと思って、良く良く見ると、何と、極めて有りそうな女性名であった。プログラミング手法初期段階なのに、単なるユーモアなのか、それとも、想いを残した意味深な女性達なのか、そのネーミング手法に、要らざる想念を楽しんだ仕事であった。因みに、その麻雀戦法は、流体技術研究者らしからぬ思い切った勝負手を仕掛ける戦法で、彼がリーチを宣言すると、戦々恐々として、特に私は、その打牌に、用心に用心を重ねた感覚を思い出す。
武藤氏は、同県人であるのと、同じ大学出身でもあったので、入社して一番初めに親しくなった。工学部出身者とは思えない程、気さくな人柄で、生活上の色んな面で、相談に乗ってもらった。いや、指導を受けたのかも知れない。この関係は別にして、知らないうちに、彼とは不思議な縁で繋がっていた。私は、学部学生時代、自宅から公園まで歩き、公園から、市内電車に乗って、通学していた。この時、公園近くから同じ電車に乗って、大学方面に通う、スタイル抜群の見目麗しき女性が存在していた。女性に全く近寄れない私は、遠くから、唯々、垂涎の眼差しをそっと送るのみであった。その後、彼氏が結婚し、奥さんの紹介を受けた時、仰天してしまった。何と、懐かしきその人であった。彼女は、その当時は、彼氏と同じ学部の学部事務室に勤務していたとのことであり、その上、西鉄ライオンズ全盛時代の平和台球場の鶯嬢に選抜されていたそうである。その時、彼女、曰く、「そんな人が居たなんて、全然気にも付か無かったわ」。ああ、やんぬるかな、やんぬるかな。因みに、私の結婚は、公表された意味では、同期の中で、ラッキー7のはずであるが、彼の導きによって、初めて成就したようなものであり、彼より、少し早く結婚に踏み切ってしまったこと、誠に申し訳なく思っている。
森孝子嬢は、私と同じ課、同じ係の配属であった。彼女は、小柄で多少色黒ではあったが、テニスで鍛えたキュートな肢体を持つ、御茶ノ水女子大出身の才媛であった。しかも、彼女は同期中、唯一の女性であった。その意味からすると、本来、彼女は同期連中の羨望の眼差しを受ける立場にあったはずである。しかし、彼女には、二つの高いハードルが存在した。それは、テニスが上手なスポーツマンで、且つ、スマートな超美青年であること、この条件を満たす男性こそ、彼女の眼とハートに侵入出来るのであった。彼女自身も、同期の男性群に、その条件を持つ者を探索した節が有って、昭和寮のテニスコートにも、かなり通っていたようである。しかし、残念ながら長崎では、同期入社を除いても、意中の人物を見つけられなかったため、かどうか、数年後に退社して、川崎に移住された。川崎では、移住直後は富士通に勤められたとの風聞が伝えられている。その後の消息に付いては、私が捜し求める責務を感じているが、現時点で判然としていないのは、誠に申し訳なく感じている。
5.同期と計装研究課
三菱造船は、日本の高度経済成長の勃興期と機を一にして、原動機や船舶を始めとして、各種主要製品の高機能化を開始していた。当時の研究部計装研究課も、それに必要な3種の技術、すなわち、計測、制御、電算の3分野に対処するため、若き人材が多数存在した。この事から、当時の新入社員は、例え製品設計部門在籍であろうと、かなりの人が計装研究課での技術研修機会を与えられていた。同期入社者も、その例に漏れず、計装研究課の然るべき担当者との交流が深められていた。
この中で、ある日突然、あの噂が流れたのである。つまり、ドッグフード事件である。この事件の、目的や経緯、顛末等は、直接関与していない私には知る由も無いので、ここでは触れない。
しかし、思わぬ形で、その余波が及んだのである。
私の所属、電子計算係には、勿論男性陣も存在したが、当時では女性にとっては、造船所一の花形職場であった。この係は、当時の研究分野や設計部門に、その存在感を感じさせ始めたコンピュータ、を使いこなすためのソフトウエアを開発するのが職務であった。当時、大学を卒業した技術系専攻の女性が、造船所の中で勤めうる唯一の職場、と言って良かったからである。このような環境の中に、女性との接し方を全く知らない新入社員が存在することになった。この中で、計装研究課に詰めた同期が、厳しい勉強の合間(息抜き、暇つぶし?)に、近い場所に在席し、妙齢の女性群に取り囲まれている私の処に集まるのは、自然の理であった。この時、何と、取り上げるべき話題の選択に失敗したのである。私の処に寄ってくれたのが、N氏やK氏が中心であったため、自然と話は柔らかい内容や夜の話が多くなってしまった。彼女たちの視線がひどく厳しくなるのを感じながら、根が嫌いでない私は、ついついその話にのめり込んでしまっていた。
彼らが立ち去った後、森孝子嬢を手始めに、若き先輩女性群からの、私への認識が一変したのは、言うまでない。それまでは何がしかの期待値があったと考えていたが、私は、色好みで、野卑で、且つ、粗野な、女性にとっては危険極まりない男、との、本質とは全く正反対な評価を戴いたのである。持って瞑すべし状況も、今となっては懐かしく、在りし日の思い出として、セピア色の記憶の中に留まっている。
6.終章
見習甲の卒業に当たって、女性同伴を義務付けられた大ダンスパーティーが開催された。具体的な場所や時期は、既に判然としないが、雨模様の多い時期だった、との感触が微かに残っている。場所も、銀馬車では無いことは確かで、ワールドやミカド(不確か)だった可能性も薄いような感がする。いずれにしても、女性の手すら握れない私に同伴者が存在するハズも無く、会場での所作は、自然に壁の花ならぬ門の閂、つまり、見かけ倒しで風貌のみの用心棒的な役割を実行したことが、思い起こされる。それでも、皆さんの進めにより、2,3人の方と踊ってしまったが、いきなり、チークダンス形式になり、今思い出しても、赤面の至りである。唯、これは私にとって、思わぬ副次効果をもたらした。それは、これを機に、女性との会話や接し方に自然性を持たせるようなことが出来るようになり、妙齢の女性が多い職場で、何とか仕事を続けられるようなった。ダンスパーティー参加は、後にも先にも、この一回であり、その意味では、得がたき経験を持ったことになった。
さて、近年の長崎地区同期会では、諸氏にお会いする度に、諸氏共に、色々な意味での艱難辛苦の旅路を経験されているにも関わらず、若かりし頃の雰囲気が直ぐに感じられ、今まで記した事、未だ誤った感触では無かったなあ、との思いに浸れる。然し、若かりし日の、色々な思い出は、今日はそれなりに思い起せても、加齢と共に、明日は風化するかも知れない状態も存在する。
39会文集編纂の機に、入寮当時の幾ばくかの経験と思い出を、文章化し、現代の有力な記録システムを使って、デジタル形式に残すこととした。取り上げた題材は、研究部門関連事項と私の趣味を中心にしたもので、事業所色彩は薄くなっているが、研究部門と事業所との接点での同期交流の一部が紹介出来たと自負している。
文中、失礼になるかも知れない事を危ぶみながら、思い出すままに記述した。当然、具体的な詳細事項については、誤りや勘違い、が生じているものも有ると思われるので、そのような事項については、諸氏から、大いに指摘して頂きたい。
最後に、諸事万端の願望を込めて、これからのモットーにして行きたい駄洒落一句を紹介し、終わりとしたい。
銀の玉、いつか成りたや、金の玉。
「これからも、元気でPPKをまっとう出来るよう、がんばるぞ」、との想いを強めながらも、せめて、「気持だけは、何としてでも、昭和寮年代を保持する」、ことを念頭に、同期諸氏の、ご健勝とご健闘を祈念して、拙い筆を置きます。
平成14年11月15日 脱稿
