40年足らずの三菱人生において合計4回も腎臓結石を患った。初回の長男石?は見習いの時であった。当時は土曜日が休みでなかったから連休は滅多になかったがS39年11月1日(土)から3日(文化の日)まで3連休だった。この連休を有効に遊ぼうとトヨペットグループ6人(檜原、江原、長田、清水、岡部、加福)は開通したばかりの九州横断自動車道をドライブすることになった。10月31日の定時後長崎を出発して雲仙へ。雲仙荘で卓球をして騒ぎ眠ったのは夜遅かったと思われる。何故なら翌朝島原から熊本県三角へのフェリーの中で横になり眠っている写真がアルバムに残っているので最初の夜からワイワイ騒いだようだ。熊本城では我々と全く関係のないバスガイド〔西川富士子〕さんと一緒に写真に写っている。ちょっと可愛い女性に逢うとすぐ声をかけて冷やかす悪いグループであったことは間違いない。アルバムに彼女の名前まで書いている自分を褒めてやりたい。水前寺公園を見ていよいよ横断道路に向かったが、開通したばかりで道路標識が完備されていなかったのか道を間違い砂利道を1時間以上走って引き返すというトラブルはあったが、やまなみハイウェイと呼ばれるだけあって牛や馬が放牧されており、秋の草花が咲き乱れる中を快適に走り、ドライブには最高の道路であった。内の牧,瀬の本高原を過ぎてこの日の宿舎は九重観光ホテル、予約していたか飛込みだったかも忘れたが一泊2食付750円と安かった一部屋に6人の雑魚寝だったのかも?このホテルに到着する少し前から腹が痛くなり微熱が出て体調不良!部屋で一人横になり、夜の女風呂覗きも翌日の久住山登り(濃霧と強風だったらしいが)も参加出来ず非常に残念だった。
九重高原から別府まで走り別府で3泊目。この夜も体調回復せず仲間達は怪しげな場所へ怪しげな映画鑑賞に出かけたが仲間はずれ。悔しい!最終日は別府から北九州→福岡→佐賀を通って北回りで帰崎したが途中腹痛はひどいは、発熱するは冷や汗も出るは最低の状態であった。みんなが心配してくれて車中では後部座席に4人、運転席の横に俺が一人でうずくまるという体勢で長時間仲間の皆さんに多大の迷惑と心配をかけてしまった。途中2回道路に沿った内科医に飛び込んだが「急性胃炎でしょう」と消化剤?をくれただけであった。
昭和寮に戻り一晩寝ると嘘のように快復。翌日から何もなかったように出勤した。それから1ヶ月位は全く異常もなく忘れかけた頃また激痛が来た。小便が真っ赤で血のようである。すぐ三菱病院の内科に行くと「泌尿器科へ行け!」と。「これは腎臓結石か、石が腎臓から出ておれば尿管結石です。どこに詰まっているかを調べる必要があるのですぐ入院しなさい」と言われあわてた。普通のレントゲン写真では骨盤が邪魔をして石が詰まっている場所の判定が出来ないとのこと。12月19日に入院した。検査の前日に看護婦が二人入ってきて「加福さーん明日の検査に備えて毛を剃りますねー」となれた手つきでジョリジョリと下腹部を全面スベスベにされた。同じ病室の隣のベッドのおじさん(長船の社員)が「加福さん明日が検査ですか、検査の時にムスコが硬くなるようだったら加福さんは将来大物になるバイ」と意味深なことを言った。そして検査の当日座らされたのは男は絶対に経験することのない妊婦が座るような椅子で両脚を広げて高く上げ、へその近くにカーテンがあり上半身と下半身を分けられるようなスタイルをとらされた。なんとも格好が悪い。カーテンの向こうには医者と看護婦が一人、上半身側にも看護婦が一人。そしてふにゃふにゃの俺のチンチンを握って先端から細いチューブを突っ込んでいく。「痛いですかー?」と医者は聞くが、分かっていることを聞くな!という感じ。「あッここに石が詰まってますね」と言われて検査は終わったが二度と受けたくない検査であった。『検査中に硬くなるなんてありえない、俺は大物になんてならなくていい』と思った。細いチューブから特殊な液を入れてレントゲンを撮ると石の詰まり場所がはっきりと分かるらしい。〔尿管結石とは(女性は男より尿管が太いので患者は少ないらしい)内壁を傷つけながら石が膀胱に向かって落下移動する時に出血し猛烈な痛みを伴う。この痛みは陣痛より痛いと男の医者が説明してくれた。だから痛みが来る度に出産の日が近づいていることを意味する。石が止まっている時は全く痛くないので健康体の人と変わらないため仮病と間違えられることも多いそうだ。「病院の中ではビールを飲むわけにはいかぬがお茶をがぶがぶ飲んで痛みのないときは屋上で縄跳びをして振動を与えて石が動くようにしなさい。」と冗談とも取れるようなことも言われた。〕結局自分の有給休暇一杯まで入院し昭和39年の最後の出勤日は会社に出た。上司が「見習い期間中に病欠が一日あると技師に登用されるのが一日遅れたりすると馬鹿らしいから最終日は顔だけ出せばと勧められたためである。トヨペットグループをはじめとする39会の仲間や銅座の女性までがパンツを差し入れ見舞いに来てくれたり嬉し恥ずかしの10日間の入院であった。年が明けても石はなかなか動かなかったが確か2月だったと思うが膀胱に違和感が起こった翌日会社のトイレで小便をした時尿と一緒にポロリと石が出た!米粒2個分ぐらいの大きさだが駄菓子のコンペートーのように表面がギザギザであった。
嬉しくてすぐ拾い上げ医者に持っていくと「出ましたかぁ、やはりあの薬は効くのだな」
とあたかも俺は新薬の確認検査のモルモットであるかのような発言であったが長男石の出産が嬉しかった。
2回目次男石は44年、三男石は47年に発症したが,下痢や食あたりの腹痛とは違うのですぐに自覚できた。痛みが走ると近くの医院でとにかく一番効く痛み止めの注射を尻にやってもらい2回とも小便と共に出産した。こんなに次々発症するのは長崎の水道の水にカルシュームが多くて固まるのじゃないのか?と疑っていた49年にまたひどい血尿と激痛に襲われた。2回痛みがあった後全く痛みがなかったし、会社でも忙しく働かされる年齢でもあり、又自然に流れたのだろうと自分で判断し半年以上何もアクションを起こさなかった。そして昭和50年5月に親父が亡くなったので急に自分の健康にも気を付けなくっちゃと思い立ち、久しぶりに三菱病院泌尿器科に行くと「今日入院しなさい。左の尿管に大きな石がづっと詰まっており左の腎臓が尿を作ることを止め、働いていないからほっておくと腐ってしまうぞ!」と脅かされた。自覚症状はなかったので2,3日は大丈夫だろうと仕事の引継ぎをしてからすぐ入院した。高校時代に盲腸の手術をした箇所と対照の左下腹の開腹手術であった。大きな石が取り出され2週間の入院であったがもう石は作りたくないので石を分析し原因と対策を医者に依頼した。「加福さんはビフテキの横に何故ジャガイモが必ず付いているか知っていますか?」
「肉を食べると身体が酸性になるのでアルカリ性の強いジャガイモを食べないと駄目ですよ」と忠告された。すなわち尿酸結石であった。あれ以来野菜を多く食べているので五男石は出来ていない。最近は尿管砕石術で開腹しなくても治るようだが皆さん食物のバランスに気を付けましょう。
2002年11月記
