今年の夏の終わりに、長年住みなれた長崎を離れて福岡に移った。家族と犬を長崎に残して、福岡で新な会社勤めである。ついこの春先までは、長年のサラリーマン生活にいよいよ終止符を打って、念願の年金生活を、それなりに優雅に過ごせるものと夢見ていた。“好きな釣りやゴルフを毎日やって、体力も回復させ、長年苦しんだ喘息にもおさらばしよう。たまには女房殿をさそって、旅に出て、古い田舎の町など訪ねてみたい”この様な憧れの生活も、“60歳はまだまだ鼻たれ小僧”との一言にまんまと乗せられて、またまた新入社員への後戻りである。インターネットの余命表で逆算すれば、60歳を過ぎた我が人生も上手く行って、残りは四分の一との事。悪くすれば、明日にもポックリ行くかもしれない。人生の秋風もいよいよ身にしみだしたのに、又、新しい会社で働くなんて、本当に物好きな事だと自分でもつくづく思う。
思い返せば、昭和39年の入社、長船配属以来、長崎でほぼ40年も過ごした事になる。
この間、幸か不幸か、一回の転勤も無かった。女房殿も長崎で現地調達したし、あの高い長崎の市町村民税も長年に渡って払い続けたのだから、三菱重工の社是に従って、地域社会にもチョッピリ貢献出来たようだ。
福岡では、天神、中州の繁華街近くの小さなマンションで、一人で暮らしている。寄る年波には勝てず、昭和寮時代のような元気も体力も気力さえも、跡形も無く消えうせて、毎晩のように思案橋界隈に出かけた若かりし昭和寮時代が懐かしい。
私は生まれも育ちも鹿児島の田舎者で、寮生活も初めての経験だったので、昭和寮での生活は全てが新鮮であった。東京での入社式の後、長船配属の仲間と共に、夜行列車の座席に揺られて長崎に移動した。護送された感じで、夜は眠れずに正直きつかった。眠れないままに、同期の面々の面白い話を色々聞いていたが、特に愉快で話上手な御仁が居ると思っていたら、それが北村で、昭和寮の5棟―208号で同室となった。寮では、毎晩、ベッドの仕切りのカーテン越しに、北村とおもしろい話をお互いにした。結構楽しかった。北村がニコニコ声で話せば、些細な出来事でもたちまち愉快な話になった。
この時分は酒も良く飲んだ。同じ職場に“ジャイアンツ”と呼ばれる巨漢で酒豪の大先輩がおられて、仕事の帰りに良く飲みにつれて行って貰った。飲みすぎて吐き気をもよおしても“俺が飲ませた酒を吐くな、吐くな”と怒られた。その結果として、ひどい悪酔をしばしば起し、帰寮しては、苦しさの為、ベッドでのたうちまわった。その都度、北村に介抱して貰った記憶が今でもしばしばよみがえる。最近になって、新しい職場でやっとメールがついて、39会に再登録したら、北村から“元気かい”と早速メールが届いた。仕事の面でもお互いに、色々縁も出てきそうで、北村との再会を今から楽しみにしている。
福岡に移るまでのこの数年間は、長船本館の火プ設部石炭プロジェクト室で、輸出プラントの設計業務をゴソゴソやってきた。この部屋には、上海帰りの石崎もいて、岡部、松沢、清水などの39会の諸兄もしばしば顔を見せてくれた。我が道を往く岡部節、ソフトムードの七蔵節、本流広島弁の清水節など、それぞれの楽しい個性は昭和寮時代から変わらずに依然として健在で、話も弾んだ。
清水には昭和寮時代にすまない事をした思い出がある。二人でダブルスのペアーを組んでテニス大会に出場したまでは良かったが、私がつまらないミスを連発して、一回戦で小柄な女の子のペアーにコロリと負けた。数年前になるが、私はフィリピンのルソン島北部に位置するマシンロック発電所に長期滞在していた。丁度、清水もフイリッピンのパグビラオ発電所に常駐しているとの事で、テニスのお詫びも兼ねて、パグビラオを訪問し、異国の地で、彼と一杯やりたいと思っていたのだが、ついに実現出来なかった。今も至極残念に思う。
石崎とは彼が上海に常駐していた時に、しばしば彼の事務所を訪問した。中国品の現調活動では、中国各地の工場や設計院を彼と共に訪問した。あの広大な中国大陸を、連日、東から西へ、北から南へと、飛行機を乗り継いで、共に駆け回った事もあった。中国訪問期間中は、私の大好きな中華料理を連日食べた。石崎は本来、中華料理は好みで無いらしい。あの美味で高価な上海蟹さえ、手が汚れて面倒くさく、食うのが嫌だと言う。それでも、連日付き合ってくれた。おまけに、私の早飲みペースに合わせて、ビールまで飲んでくれて、さぞかし大変だったと思う。石崎先生、多謝、多謝。
石崎が上海から帰任した後は、同じプロジェクト室での勤務と言う事も有って、私が長崎を離れる最近まで、仕事の帰りに二人でしばしば飲みに行った。ここでは、彼はもっぱら私の愚痴の聞き役であった。今回の私の福岡転職の話も含めて、いろいろ私の相談事にも乗ってくれて、親身に心配してくれた。貴重なアドバイスも彼から多く貰った。加えるに、昭和寮時代には、彼は私の結婚式の司会もしてくれた。迷惑そうな顔もせずに、気安く引受けてくれて、今でも感謝している。思えば、石崎には迷惑の掛け続けである。彼は今でも若々しく、心身共に健康そうだから、多分私より随分と長生きするだろう。迷惑の掛けついでに、ここまで来れば、私の弔辞も読んで貰いたいものである。石崎先生、長生きして下さい。
長崎には本当に長い間、住み続けたものだと思う。この間、出来の悪い二人の子供を作っただけで、大した事も出来ず、山上憶良の褥のワラスボの一本でも煎じて飲みたい気持ちである。現在はどうした事か、福岡の都市ゴミ焼却炉メーカで再び働く事になってしまったが、この地で、私の人生の集大成が出来ればと願っている。私の新しい社長さんがおっしゃった様に本当に “60歳は洟垂れ小僧”なのだろうか、はた又、我が人生の残りは、本当に“四分の一”だろうかと疑問に思う事もある。
それでも、我が人生のLast QuarterはQuality Lifeで生きたいものである。
終わりに、我が拙文中の39会の諸兄殿には敬称は似合わないと思い、省略しましたので、悪しからず。 それでは、39会の皆様、
Happy Merry Christmas !
(クリスマスイブの夜に。前原)
