1.私は5−301号室に入居した。同じ部屋の小川俊典さん(ご逝去)とはよくダンス教室、ボーリング場、パチンコ屋に行った。そして、時には麻雀をした。私は大学寮生活時代に麻雀が好きでよくやったが、お金をかけた経験は一度もなかった。小川さんは学生時代に賭け麻雀をやられていたそうだ。私は昭和寮に入ってから賭け麻雀をするようになったが、そこでプロとアマの差を思い知らされた。小川さんはよみが鋭く計算も速かった。
故 小川さん(向かって右側)と5−301号室にて
2.昭和寮には写真クラブ(正式名は思い出せない)があり、同期の中川敬明さんの誘いで同クラブに入会した。中川さんは確かアサヒカメラという専門雑誌を愛読されていたので、写真は私のよう素人ではなかった。ある日、雲仙で撮影会をするためにマイクロバスで出かけた。その晩は旅館の一室で撮影会の予行演習をした。みんな浴衣姿でカメラを構えているものの、マイクロバスのバスガイドさんをモデルにした健全な撮影会だった。翌日は、高原にて若い二人のモデル嬢をみんなで撮影した。私は、プロのモデルを使った撮影はこの時が最初で最後である。 後日、寮でその撮影会のコンテストがあった。私は入選しなかったので、やはりみんな見る目があるのだなと思った。寮のDPE室を自由に使えたので、気に入った写真を大きく引き伸ばして楽しむことができた。
3.私が配属されたところは特殊機械部技術課だった。私の仕事は米国製魚雷の性能調査だった。 国産化をするための準備である。 佐世保の自衛隊まで一人で目的の魚雷を受け取りに行った。私を出迎えた高官は一瞬驚いた様子で、「他に誰かくるのか?」と聞いたので、「私だけです。」と返事すると、「君はいつ入社したのか?」と更に質問したので、「今年の4月です。」と返事した。すると最後に「三菱ともあろうものがこんな新人をよこして・・君はMSA協定を知っているのか?・・」と不満をたらたらといわれたのを覚えている。 責任者ということで輸送中は魚雷から片時も離れることができず、佐世保から長崎までトラックの助手席に座っていた。そのときは、ドライブができて楽しいなと気持ちを切換えていた。
その魚雷はホーミング魚雷といってミサイルのように標的を追尾するもので、その内部は電子部品で埋め尽くされていた。堂崎の発射試験場に行くために、昭和寮を朝暗い内に出発しなければならなかった。 最初の発射テストで失敗して魚雷を行方不明にしてしまった。自衛隊が飛行機と船と潜水夫を出して捜査した。魚雷は数日後大村湾のヘドロに頭を突っ込んだ状態で見つかった。責任を感じてしばらく落ち込んでしまった。しかし、その次の発射テストからはすべて成功して何とか汚名を挽回できた。
4.同期の原正則(旧姓:成富)さんは私と同じ課でロケット関連の仕事をされていたが、なかなかの情報通だった。人脈も何もない私は職場の人や仕事に関するいろいな情報を原さんから得ていた。原さんといえば何といってもチャスラフスカの一件が印象深い。彼女は東京オリンピック女子体操の総合優勝者で、その美貌と華麗な演技は日本中をうならせたものである。彼女が長崎を訪問したことがり、彼女が長崎から帰るとき、原さんは強引にも彼女の電車に飛び乗り、どこかの駅(多分、博多?)まで彼女(チェコ人)とドイツ語で会話をしたという。原さんの無謀とも思えるその大胆さ、勇気には敬服したものだ。チャスラフスカさんとの交際はその後もあったに違いない。
私は、そうした楽しいことが多かった昭和寮を1年余りで出て、一度やってみたいと思っていたアパート暮らしをはじめたのである。(おわり)