5棟 109号室
三好 章夫
長船の独身寮は当時水之浦の山手にある木造平屋建ての「平戸小屋寮」であったが収容人数が増え老朽化も進んでいたということで、浦上地区の昭和町に新しく鉄筋建て4棟が建てられ大半の独身者はそこに移り住んでいた。われわれが入社した昭和39年にちょうど5棟めが出来上がり新入社員は原則として全員が幸運にも先輩諸兄が一人もいないこの新築の寮に入居となった。この建物は先輩社員の居住しているすでに少し古くなった建物の前を通り過ぎた一番奥まったところに位置するので入口にある管理棟からは最も遠くなる。まさに管理人様の目の届かぬ治外法権を発揮できる自分たちの牙城であるかのような錯覚を皆持ったのであろう。そこには新入社員でありながらわがもの顔にふるまえた環境があったのである。
わたしは加福さんと相部屋になり1階の109号室で過ごすことになった。109号室には加福さんを慕って訪れる者が絶えなかった。このスナップ写真には海水浴に行ったあと長田会長が小生の干していた海水パンツを洗濯バサミのついたまま頭にかぶりふざけている姿とともに常連が顔をそろえている。冬に備え購入され5棟の入口にうず高く積まれていた火鉢を夜陰に乗じて飲んだ勢いで持ち出し寮のメイン通路に並べたいわゆる火鉢事件の首謀者とその仲間たちである。
新入社員は定時(確か4時であった)で帰れたし、当時は組合活動華やかし頃でありストライキが結構多かった。重点ストを打たれた職場は午後職場放棄となり、われわれ新入社員は一見神妙な顔をしながら内心ではさて何をして遊ぶかなと思いをめぐらせぞろぞろと退社した。独り者は帰ってもすることもなく体をもてあますことになる。日が暮れるのを待ちきれず思案橋や銅座界隈へと夜な夜な繰り出していくのである。
深夜へべれけになりご帰還に及んだ酔っ払い連中が「いま帰ったぞ・・・・」と全員の
部屋のドアを順番に激しく叩きながら大声で騒いで回るのが恒例となった。
入社した年39年は、長崎地方が異常渇水に見舞われた年でもあった。近代的な鉄筋コンクリートの寮も水不足には弱かった。極度な時間給水となり水洗トイレが使えなくなったためトイレの入口に大きなドラムガンが置かれた。その中に汲み置きした水をいれ用を足した後その水で流すのである。中には不届き者がいてやりっぱなしになっていた。そのうち“自分のやつは流せ、流せ!”と大書された張り紙がはられ、そのあとは不快な思いをすることもなくなった。長崎はその後水道事情はよくなりこのようなことはなくなったと聞いている。今となってはこれも懐かしい想い出のひとつである。
休みともなると檜原さんの愛車トヨペットクラウンで誇らしげに島原の加津佐や近郊に繰り出した。当時車はひとつのステイタスで寮のなかでも数台しかなかったと記憶している。大先輩が車を自慢げに洗っているのを眩しく眺めていたものである。出かけた先では実に他愛無いことをして遊ぶ。次の写真は浦上貯水池の奥山で木に登りポーズをとっているところであるが、今見ると小学生低学年なみの行動パターンである。左端の木によじ登っている清水、その右上で悠然と遠くを見やって一人悦にいっている檜原、そして右端でうれしそうに下を見下ろしている江原。この三人はまさにニホンザルにな
りきっているようで微笑ましい。
このように実に純粋無垢な日々を過ごした寮生活も小生は1年あまりしか享受できなかった。入社翌年の5月には結婚することになり退寮した。しかし昭和寮5棟109号室での想い出はなぜか、つい一人でににやりとすることばかりである。
その後昭和43年7月に下船に転勤することになり、39年入社の面々が稲佐寮で送別会をしてくれその際色紙2枚に“激励の言葉と数値目標〇/7”を綴ってくれた。馬齢を重ね早60余年、わたしはその色紙を終生の宝物として転勤、転居のたびに持ち歩いていて今も手元にある。二枚の色紙もすでに40年近くたち古新聞に包む程度であったので保存状態が悪くあちこちに染みがつき書かれた文字も擦れて読みづらいものもあるが、昭和寮で青春を謳歌した仲間が昔日の己の姿を思い出すのも一興かと思い二枚の色紙を添えて終わりとしたい。特に1枚目裏の各位の努力目標に注目あれ。
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終
(檜原註:二枚の色紙は「写真集」の三好章夫提供写真集をご覧ください。)