前書き
来年の4月1日で三菱へ入社してから丸39年になる。そして、俺も サラリーマン生活に別れを告げ、やっと待望の自由が得られる。この間に人生の約半分を費やしてしまった、否その殆どかもしれない、誰も人の寿命など分からないから。しかし、俺は今からが人生の充実期だと思っている。よく「第二の人生」とか言うが、俺は「第四の人生」と称している。第一が生まれてから大学を出るまでの被扶養者の時代、第二が人生独立した三菱時代、第三が1994年3月から出向し、その後移籍した福岡市にある西日本技術開発(株)での2回目のサラリーマン生活。ここでは三菱とは全く違う企業文化にふれ、視野も広がった。だから期間は約9年と短いが、三菱の時代とは区別した。そしてこれからがシンフォニーの第4楽章(最終楽章)とも言える第四の人生である。ベートーベンの「第九」のように高らかに歌い上げたいものである。ただし身体は外観も内部も経年劣化が進んでおり、体力は筋力、持久力とも落ちている。精神面だけはまだ若さを失っていないと自分では思っているが、年を忘れずに無理をしないことを心がけたい。
さて、前置きが長くなったが見習甲や昭和寮時代の思い出といっても記憶力の悪い俺はとんと思い出せない。皆さんのように派手な活躍もなく、酒も殆ど飲めなかったので皆について飲みに行くこともなく、麻雀も出来ず、パチンコのような賭事は嫌いで、これといったエピソードも無いせいかもしれない。所謂「飲む、打つ、買う」に関心がなく、何が楽しいのかと愚妻に馬鹿にされているが、そうかもしれない。自分でも良く分からない。酒でも飲めれば少しは人並の生方ができたのかもしれないが、そうなればそれは現実の俺とは別人になる。仕方がないので古いアルバムを取り出して眺めたが、その頃の写真は殆どが職場(原動機管理部基本計画室)の人達との旅行やハイキング、海水浴、各種スポーツ等のもので、39会の仲間との写真はあまり無かった。俺は付き合いが悪かったせいだろう。少ないながら何枚かあったその頃の写真を見ながら断片的な記憶を少しずつ思い出し、何とか文章にすべく試みた。以下にそれらを記すがあまりにも幼稚だった自分に恥じ入るばかりである。
1. 昭和寮の思い出
5棟の3階だったが部屋番号は忘れた(307号か?)。トイレに近い真ん中辺だったと思う。同室は朝田さんで夜遅くまでパイプをくわえて読書(勉強?)されていた。その隣で俺はさっさとカーテンを引いて畳ベッドで寝たしまったものである。ただ決まって眠りに就いた直後(と思う)に39会の飲み仲間達が帰ってきて大声で「起きろ!」とか叫び、部屋のドアを叩いてまわり、寝入りばなを起こされるのには閉口した。同じ階には中川、香川、神野、原(徹)他の諸氏がいたと思うがこれまた記憶が定かでない。エアコンも暖房もなく、電話も管理人室にしかなく、ましてや個室にバス・トイレ付きの今の寮と比べれば便利さや快適さは雲泥の差かもしれないが、俺には自宅から独立して自分の思う通りの生活ができる寮生活が嬉しかった。しかし後年、仕事が忙しくなると最終バス(?)で帰ってきて閉まる直前の食堂に飛び込んで夕食をトレイごと部屋に運び、すぐに風呂に直行し、管理人さんが既に掃除を始めた風呂に飛び込むという生活になったのは味気な
かった。土日(土曜は半ドンだった)は1年目は何もかも目新しく、あちこち飛び歩いていたと思う。2年目からは寮にあったテニスコートでテニスを始めた。大学時代に多少齧っていたのでへたではあるが楽しめた。これは金もかからず、かっこうのレクリェーションであった。手持ちのアルバムに完全にセピア色になった39会の仲間(一部)との貴重な(?)写真があったので添付する。期日は39年5月のある日。場所は昭和寮5棟の屋上。Occasionは不明。
2.ダンス
見習甲あけのダンスパーティがあるというので、仲間(名前は失念)数名と浜の町観光通り(?)にあったダンススタジオにダンスを習いに行った。俺にとって生まれて初めてのダンスでブルースやマンボ、ジルバのステップを習ったと思うが、今から思うと一夜漬けで踊れるようになるはずがなく、当日は朝田さんと二人で居たところにうまい具合に二人連れの女性と出会い、朝田さんが声をかけて誘い(たぶんそうだと思う、当時の俺には出来なかったと思うから。なにしろそれまで中学卒業以来女性と音楽には縁が無かったから)なんとか様になった。ただしダンスは体をなしていなかったと思うので、たぶんお喋りが主だったと思う。話をしていて分かったが相手の女性は二人とも三菱の社員で、朝田さんの彼女はなかなかの美人で、後に39会の仲間の一人の奥さんになった。俺の彼女はその後非常に熱心に俺を誘ってくれたが、俺は逃げてばかりいた。その後大学の先輩(社員)が俺と後輩(社員)の二人を釣りに招待してくれ出かけたところ、そこにくだんの彼女が来ているのにはびっくりした。実はその先輩の奥さんが彼女の姉だったのだ。後日、彼女はその後輩と結婚したことを知った。彼女にとって良かったのではと思っている。
話が変わるが、その後俺も結婚して青婦協主催のダンスパーティに二人で行ってジルバを踊ったら俺がリードしない(できないのだ!)と言って、愚妻を怒らせて(落胆させて?)しまった。無理もないことであった。その事が何時までも愚妻の心に引っかかっていたのか、ふとしたことで二人でダンスを習う(無理やり愚妻に引っ張られて)ことになった。始めてからもう3年にもなるのに遅々として上達せず、その難しさ、奥の深さにあらためてチャレンジ魂を掻き立てられている。
3.車
上司(相川賢太郎さん)から車の免許は見習の内に取っておかないと仕事が忙しくなって永久に取れないと脅されて、12月から浦上自動車学校へ行き運転の練習を始めた。12月30日(雪がちらつく寒い日であった)に試験があったが見事に落ち、31日に千葉の実家に帰省、正月もそこそこに4日に長崎に戻ると二日間練習しただけで、1月7日に試験を受け今度は見事に合格した。免許を取るとすぐ職場の先輩から誘われて3人共同で中古の車を買った。トヨタのパブリカ(水平対抗2気筒700CC空冷エンジンという珍しい車だが大衆車のはしりとなった車である)であった。これが当りが悪かったとみえ、しょっちゅうエンストし、クランクや押しかけで始動するのを手始めに、ありとあらゆると思えるくらい色々な故障を経験し、お陰で車の運転だけでなく保守整備等も実地勉強が出来た。このポンコツで九州中だけでなく、遠くは鳥取の大山に行き、20時間以上かかって長崎までたどり着いたこともある(まだ九州等には高速道路は無かった)。パンクが怖くて窓をあけてタイヤの匂いを嗅ぎながら走ったが、今ではよくまあ無事に帰れたものだと思う。若気の至りというか、無謀ということが分からなかったのであろう。写真
はそのパブリカで熊本から九州の脊梁国見岳近くの海抜1400m以上ある、九州で自動車の通れる最高高度の椎矢峠を越えて、宮崎県の上椎葉ダム(写真のダム)や高千穂峡を訪れた時のものである。この時は帰りに突然夜道に電気が消えてしまい、ボンネットを開けて調べたらバッテリーが脱落してしまっていた。あまりに長時間悪路を走ったせいで振動で錆びていた留め金具が破損したためであった。この時も何とか自分で応急手当をして昭和寮に帰還できた。まだその頃JAFなど無かったと思う。

4. 山登り
39年8月15、16日(毎年この日は会社が休みであった)に1泊2日で九重山に行った。三好さん、朝田さ
ん、藤間さんとの4人パーティであった。たぶん三好さんが計画され我々を誘ってくれたのだと思う。体文からテントその他を借りて担いで行った。久住山登頂後坊がつるでテントを張ってキャンプし、2日目は霧の中を大船山に登り、豊後竹田に下った。写真は1日目飯田高原長者原で、登山開始前のせいか皆まだ元気そうである。その後、職場の人達と涌山や祖母傾山等に登り,一人でも由布岳、霧島連峰、四国の石鎚山や剣山、鳥取の大山等に登ったが、結婚してから足が遠のいた。学生時代に学友と富士山に登り山登りの味を覚え、東京近辺の山や北アルプスの槍ヶ岳等に登ったが、またこれからスキーとともに少し山登りも復活したいと思っている。
4. テニス
前述のように入社2年目から昭和寮のコートでテニスを始めた。昭和寮のテニス仲間で毎年8月15、16日に雲仙荘に泊まって1泊2日のテニス合宿(「雲仙杉山杯テニス大会」と称していた)をやっているグループがあり、それに入れてもらった。3年目には職場の先輩の末光さんが、4年目には39会の長沢君が参加した。写真はその時(42年)のものである。この時の成績はシングルスは長沢君に6−1で勝ったとあるが全体では不明。ダブルスは長沢君と組んで準優勝している。昼には白雲の池でバーベキューを行い、俺は雲仙の町に炭や氷を買いに走った。この時の参加者の1/3位は所帯持ちになって奥さん同伴で
あった(長沢夫人も来ていたと思う)。二日目の昼は帰りに諫早の福田屋で鰻を食べるのがお決りであった。その後もテニスは結婚後数年間ブランクがあったが、健康のため細々ながら続けていた。生来の運動神経の悪さと体力の無さのため、強くはなれなかったが一番の趣味と言えた。しかし福岡勤めとなって以来、すっかりご無沙汰しておりゴルフに席を取られてしまった。また閑になったら再開し、試合などで競うのでなく、ゆっくりのんびり、優雅なテニスを楽しみたいと思っているがどうなることやら。
4. 合ハイ
記憶に残っているのは確か八郎岳へ登った場面である。相手は玉木短大(?)の女学生だったと思う。し
かし、アルバムを見ていてそれは間違いであることが分かった。いや合ハイに行ったのは間違いではないのだが、それは39会のメンバーではなく、職場の連中とであった。その頃は職場の平均年齢が若く(多分30代前半位だったと思う)、仕事もしたが遊びも大いに楽しみ、海水浴、ハイキング、さらにはバドミントン、バスケットボールや駅伝等の体文の各種スポーツ大会にも職場で参加していたことがアルバムを見てあらためて分かった。俺は同期の仲間との遊びが少なかったのだ。でも39会の仲間との合ハイの時の写真も見つけた。この写真の他にフォークダンスをしている写真もあった。思い出せなかったのが、この写真を見て徐々に記憶が戻ってきた。場所は雲仙の田代原で、相手は活水高校の同期の卒業生で活水短大生等とのメモが書いてあった。写真の左端にいるのが“女岡部”と言われ、女性群を仕切っていた現出沢夫人である。どうして二人が結ばれたか、その経緯を俺は知らない。
後書き
情報というものは生きている限り次から次へと頭のメモリーにインプット(記憶)されるわけで、人間のメモリーも無限ではないから新しい情報が入るたびに古い情報は消されるのではないだろうか? だから昔の出来事はよほど強烈にインプットされたもの以外は忘れてしまい思い出せないのだ。しかし、一度インプットされた情報は消されてもその痕跡(?)が残っているのか、何かのきっかけで記憶として思い出されるのではなかろうか。そのきっかけを与えたのが古いアルバムの写真である、ということが今回の体験で分かった。記録写真の効用を実感した次第である。