加福さんの結婚式
長田 道昭
 昭和41年11月23日大阪の宝塚で加福さんが眞弓ちゃんと(寮で盛んにこう言ってノロケていたのでこう呼ばせていただきます。)挙式するので是非出席せよとの要請があり久しぶりに長崎時代の旧友と飲めると勇躍出発した。(加福註:11月22日の「いい夫婦の日」の翌日に挙式したのが間違いの始まりでした。)

 2時に宝塚ホテルで昭和寮の江原さんと待ち合わせていたが新幹線に一本乗り遅れて到着したのは午後4時ごろであった。早速江原さんと式場で歌う歌の打ち合わせを行った。江原さんは「俺も歌うのか?」とびっくりしていたがもともとこういうことはきらいじゃない方だからニタニタ笑って打ち合わせた。そうこうしているうちに新郎がめかしこんで出てきて加福さんのオフクロさんもそして花嫁さんもすっかり準備が整って椅子に座っていた。加福さんの家(大阪の高槻市)には夏の出張の時大変お世話になっていた。(加福註:加福は神戸に長期主張中で週末は帰省していた。)あの時は土曜日に仕事を切り上げ加福さんの家に転がり込み知らぬ間にビール、ウィスキーを空にし気がついたら朝になっていてきれいな夏布団の上は一面ドロの海であった。気がついたら眠れないのでカバンの中からちり紙を取り出し一生懸命にヘドを包みトイレに捨てたが、固形物が無くなるとシミだけになりまるで寝小便(もっとも布団の上の方だけ濡れているのだが)のようになるので少しばかり残しておいた。日曜日なのに加福さんは朝早く出勤してしまった。10時ごろだったかおふくろさんがやって来て始末をしてくれた。

(加福註:先日(2002年10月)現在も高槻で一人暮らしの母88歳に「俺と同期の長田さんを覚えてるか?」と聞いたら「もちろん覚えてるヨ、たった一晩泊まってもらっただけやけど忘れられへんワ 布団は洗濯すれば元に戻るけど長田さんにとってはものすごい悪い想い出としていつまでも残っているのやろね、気の毒に」と懐かしそうに話していた。)

一段落すると頭がガンガン鳴り出してぼうっとした。なんでも長崎の「大文字」に30分以上も電話していたそうで恐縮した。朝飯はお茶漬けに梅干(これが旨かった)で、3杯差し向かいで食べたのも甘い想い出である。そんな訳で加福さんのオフクロさんとは10年来の知り合いのようなものだったから何となく今日は騒げそうだと胸を弾ませた。予めの打ち合わせによると真ん中あたりで僕らの出番があるというので江原さんと二人で出番までにガバガバ呑むことにした。式場に入ると厳粛な気分に満ちていた。そこで隣り合わせた江原さんと人目を忍びながらガバガバやり始めた。シャンペン、ビール、日本酒とまさに絶妙のコクと味である。気がついたらボーイが一人づつ後ろにぴったりと付き添ってオカワリの用意をしていた。酔いが回ったころお座敷がかかった。

それ来たとばかり挨拶もそこそこに大きな声で青春を歌った。(若き良き青春を謳歌したつもりであったが、一般大衆にはあまり馴染みがないらしくてキョトンとしていた。)
昭和寮に居たころ夏になると毛頸を出し大きなステテコを膨らませていた加福さんもとうとう所帯を持つかと思うと感無量であった。式が終わると普通の人はハイこれまでと気を利かせて帰るものだが、遠路はるばるの悪童代表の二人にとってはそうもいかない世の慣いがある。そこで宝塚ホテルをひとまず後にして作戦を練った。

我々二人には大阪駅に近い新阪急ホテルが予約されていたので(ずいぶんお世話になってしまった。やはり世間は一人じゃ渡れない。)安心してストーム計画を立てた。ニッカを買って電話で新婚さんの部屋番号を確かめ、一度電話しておいて安心させて訪れたのは夜の11時ごろであった。「帰ったぞー」昭和寮名物の呼び声はさすがに出なかったが新婚初夜に部屋を訪れるのはこれが最初で最後かも知れない。それでも一時間足らずで退去し新大阪ホテルへ行った。ツインベッドでホンワカしており江原さんは風呂へ、僕はまたウィスキーであった。江原さんは例によってパンツひとつの悩ましい姿でベッドに横たわるので眼のやり場に困った。

 翌朝江原さんは僕が加福さんと同じ新幹線で帰ることを命令してから特急つばめで長崎へ帰っていった。新大阪のホームへ行くと加福さんのオフクロさんが一人でオロオロしているのに出会った。昨晩のお礼とついでに僕のお嫁さんも頼み込んでおいた。昨日の式で見た顔が続々とつめかけてくるとさすがに気後れしたがやはり同じ列車に乗り込んだ。「行ってらっしゃい」、「行ってきます」何の変哲もないやり取りであるが、新婚旅行の見送られる方が3人とは妙なものである。列車の中ではさすがに疲れて眠ってしまったが小田原で降りる時花嫁用の花を呉れた。ああ僕も早くお嫁さんが欲しいよ。(加福追記:先日母はこんなことも言っていた。「もう一昨年のことやけど、あんたがサウジで倒れた時一番に電話してきてくれはったのも長田さんやったわ。いいお友達がたくさん居て幸せやね。」

註:原文は昭和41年に帰京後すぐに、勢いで会社で会社(CM)の設計用紙にかいたもの。今回『PPK 39会想い出文集』の作成にあたり、この原文にご本人さまの甘い想い出を追記補充して、茲に公開公示にこぎつけたものである。