僕の青春日記 夢か現か幻か
長田 道昭
●長崎への赴任
時の流れとともにイガグリ頭の純情な少年もひねたヒゲヅラの四年生となり、ドライブだとかパーティだとかノート写しなどに追われていたので、就職問題なんかどうしようかと思っていた。慶応の学生というものは、そういう所はさすがに抜け目なく、他の者はそれぞれ好みの会社を志望している。僕はこういう所は案外のんびりというか総領の甚六というか気の長い面があるので、会社の名札を眺めては頭のどこかに覚えている名前でしかもエンジンに関係のある仕事をやらせてくれそうな所をと思っていた。そんな訳で長船を希望したのは一つには成績が芳しくなかったこともあるが、何となく長崎という名に憧れたということが最大の原因であった。長男ということからずいぶん変わったことをすると云われたが、就職するとか家から離れるという特別な感情は殆どなかった。何というか、そういう面ではずいぶん大陸的でぼうとしているのかも知れない。

●東京よサヨウナラ
昭和39年4月1日三菱重工、正確には三菱造船に入社したことになる。集合教育は日生劇場で何かやっていた。禿頭の爺さんが何かの毛でピシャピシャと頭をたたいていたのだけが頭に残っている。他から来たやつは原宿の青年文化会館に泊まったのだが、広島から来たところのカツドンこと清水は、新宿へ飲みに行き9,000円ぼられて帰ってきた。このカツドンをめぐる珍談奇談は数限りなくあり、底抜けの人の良さはまさに広島の名酒酔心並に超一流品である。このとき、わかりもしない英字新聞をひろげて人を煙に巻いていたのが、寮に入ってからダンス教習所連続19日間精勤の輝かしい記録をうちたてた赤尾である。一人むっつりとトリスを飲んでいたのが、ケタ外れの行動力とタフで鳴らす京大大学院卒のサムライ檜原さんであり、檜原さんがトリスを飲んでいるのを見て社会人になっても同輩がいるわいと喜んだのが胆石を悩むポンコツ身体の加福さんであり(檜原註:加福さんの持病は胆石ではなく、腎臓結石ではなかったか?)、安い酒の同類がいるわいとほくそえんだのが「しんせい」しか吸わないパンちゃんこと江原さんであった。何となく出発の時が来た。4月10日(金)午後12時30分東京発急行雲仙の座席で長崎まで行くのであったからひどいものだった。自工研の連中多数と親類や重工多場所の連中(東製や川自や横船のやつ)が見送ってくれた。自工研後輩の梶、金田、丹後、大島などからはいわゆる悪書類、その他からは食べ物が多かった。親類のオバさんからはニッカ・ゴールドを貰ったが、これは翌年正月に帰省してまた帰るときにもくれた。寮の本棚に空瓶を飾って楽しんだものだ。なにしろ僕の本棚は本を置くのではなく酒ビンを飾るものであったからだ。とにかくこの時は餞別が多くなりすぎて座るところがなく困った。あまり多いので食べ物はまわりの奴等に一所懸命くばってまわった。選挙に出るエライ先生みたいなものであった。その時まわりにいた連中は下船に行ったのが殆どであったが、水野と朝田さんが一緒だったのは不思議と記憶している。

●南国情緒の長崎へ
4月11日午前11時43分生まれて初めて南国情緒豊かな長崎の地を踏んだ。レールがここで終わる土地なんていうのも生まれて初めてである。赴任したというよりも旅行に来たようなものであり、なんともはや気軽なものであった。とかくこの世は住みやすい、なんとかなるさ、と無責任の就職第一歩であった。寮は長崎市昭和町744番地 昭和寮5棟211号室であった。(檜原註:昭和寮の住所は「昭和町」ではなく「文教町」ではなかったか?昭和町から文教町に町名変更があったような記憶もあります)。まず駅から大型バスでまったく見知らぬ所をどんどん走って約20分、ちょっとした立派なビルディングにとまった。1棟から5棟まであって収容人員約400人。あとになってわかったが、どこの会社でも厚生施設はこんなものであるが、何しろ世間を知らなかった僕には御殿のように思えた。階段を上がると左側が受付、右が食堂(これはすぐに売店と娯楽室になった)。この食堂で最初に食べたのがカレーライスである。同室の名簿を見たら佐伯という名があった。ははん、二人部屋だな、どんな人と連れ添うのかと不安と期待、写真のない見合いにほのかに頬を染める乙女のようなものであった。佐伯さんって、どなたですかと相手を探しあてたが、やがてこの人と足かけ2年間の同棲生活が始まることになるのであった。

●初月給
4月20日 初月給を貰った。額面22,136円。手取り20,707円(寮費を差し引いて)であったが、あと2~3年のうちでは最も多額の給料であることは後になってわかったのである。チリトリやクズカゴ、石鹸など細かいものを買って楽しい独立採算生活が始まったのである。学生時代の悪友連や後輩から盛んに手紙が来た。みんな島流しみたいで淋しいだろうという文面であったが本人はいたって元気一杯自由を楽しんでいた。造船所の方ではまず実習になったがちょうど三菱造船最後のストライキが華やかなりし頃であったので大きな船に重点ストがかかり実習出来ないので自衛艦“あまつかぜ”の艦内作業となった。艦内艤装といっても学校出たてでは口ばかり達者で力はないし要領は悪いから役に立つどころか邪魔になることが多い。格好だけは一人前ではあるが(もっとも吾輩のはヘルメットが歩いているようなスタイルだと言われていた)ブラブラしたり昼寝をしたりで海に浮かんでいるクラゲをからかったりまことに無事平穏な実習であった。軍艦というものは手が込んでいて一缶がやられても別の缶で走れるように区切りがはっきりしている。おまけに天井が低いのでヘルメットにごつごつ当たる。考えてみたら生まれて初めて天井に頭をぶつけたことに気がついた。今まではどんなに胸を張って歩いても頭に障害物を感じたことがないのにあっこれが実社会の生きる厳しさだと胸に刻んだ。 それにしてもこの『あまつかぜ』は、最精鋭艦とかでミサイルとかレーダとか放射能避けの装置とか高価な大人のオモチャだと思った。こんなもの作って国威を内外に誇示するのであったらグラマーが脚を上げてカンカン踊りを披露する劇場作った方が余程気が利いているように思えて仕方がない。この造機艤装工場の工場長の増本さんというのは眼鏡をかけたミイラが蘇えったようなやせた人であるが、無類の酒好きで世話好きな人である。この時一緒に実習したのが川上(造艤)と神野(ディーゼル大型)と僕であったが、増本さんに定時から千代鶴(通称第四会議室)で飲まされた。映画では見たことがあるが実際こうした一杯飲み屋に入るのは初めてであり何となく面白かった。バーとかキャバレーとかは学生時代に遠征したり合宿したりした時によく入ったことがあるが、本当の一杯飲み屋は経験なかったのである。
千代鶴で飲んでから八幡下の増本さんの家でまたご馳走になった。寮に居ると家庭の味とはうまいものである。長崎の人はみんな親切で酒に寛大である。娯楽が少なく刺激も少ない平和な土地柄であるが、酒を飲んでおおらかに生活を楽しむ。従って陽気で楽天的な人が多い。この実習の時補機の給油をやったが、大分経ってから艦艇設計の木原から補機にどれぐらい給油したか分からなくて結局入れ直したと聞いた。そんなことこっちは関係ない。とにかく適当に入れただけである。この木原は僕が転勤してからすぐに東京の原子力船事業団に派遣となりカアチャンをもらってつかの間の東京生活を楽しんでいる。
4月22日 親父から速達が来た。赴任間際に愛車を親戚に譲ったのだが、その愛車が事故でも起こしたのかとびくびくしながら封を切ったところ中外製薬の研究室勤務の姉が学会とかで來崎するとのこと。そんなこと言っても僕は長崎へ来てまだ2週間位。あっちこっちとぶらついてもまだ未知の部分が多いのだからどうしようと思っているうちに4月26日(日)は学会は休みだから案内しなさいと土曜日の晩に電話がかかってきた。寮に入って初めてもらった電話は姉であった。2年後、後ろ髪を盛んにひかれながら寮を出る時最後に貰った電話はある乙女からであった。とにかく一人の姉だからと思って夕方定時で帰っていつものように風呂に入って飯を食い五島町の坂本屋へ行った。この坂本屋というのは妙な取り合わせであって翌年夏工学部の下郷先生一行が來崎してターザンこと村樫さんと一緒に行ったのもこの坂本屋であった。坂本屋の玄関に立ってオバさんにこういう人はいないかと尋ねたところまだ到着していないとのこと。よく考えてみたら日曜日の昼まで学会があって学会の同輩と一緒に諏訪神社の近くの県立ユースホステルに居ることを思い出した。行き違いになるとやっかいなので車を拾って駆けつけた。本当を言うとどこに県立ユースホステルがあるのか知らなかったのである。県立ユースホステルの玄関に立って長田を呼んでくれと頼んだところ長崎の人は親切であるから気を利かせてわざわざ『女の長田さん』と呼び出し放送をしてくれた。世の中なんて思わぬ時に思わぬことが起こるものである。煙草をふかしながらちょっとニヒルな横顔を見せながら何気ない仕草で外を眺めることしばし。『あのぅワタクシ ナガタでございますが、何か御用でございますか』という声でふと振り返って驚いた。いつの間に姉は17、8歳に若返り、可憐になったのであろうか、髪はカラスの濡れ羽色、眼はぱっちりと大きくて、睫毛は長く澄んだ目元。色白の可愛いい(全く僕の趣味―鰐淵晴子と岩下志麻と八千草薫とロミーシュナイダとオードリヘップバーンを合わせて5で割ったようなもの)女の子が立っていた。一瞬呆然と口の早い僕もなんと言ってよいか言葉に窮した。このつかの間に、我が水晶体にはあたふたと廊下を渡ってくる姉の姿の映像を写し始めた。『君の名は』では、数寄屋橋のすれ違いが世の紅涙をしぼりとったとか女湯ががら空きになったとか言うが、本当にこの時は泣けた。世の無情を嘆いた。あー我非力なりと。駅前からタクシ?で長崎遊覧に出かけた。市内全部見て回っても1,000円ちょっとであるから安いものである。夜の稲佐山へはこの時初めて上った。こんないい景色はないと感心した。それから以後よく利用したがこれは後の項に話すことにする。支那寺の興福寺(万人鍋で有名、裏の階段から矢太楼へのコースは夏のアベック遊覧コース)を見てから鼈甲の何とか亭(江崎鼈甲店)に連れて行かれた。夕方も遅かったので客は姉と二人きりだった。店の女の子は冷たいジュースを出してくれるし女主人が率先して説明してくれる。姉は何やかやと選定していたら『奥様これの方が良いですよ』と女主人が勧めるのでびっくりした。何のことはない新婚さんと間違えられていた。それにしても奥さんばかり金を出すのだから店の人も驚いたろうと思う。

学校卒業したてであったから向学の志はまだあった。学生時代はよく遊びよく遊んだから色々な芸を身につけたつもりであったが、唯一の心残りは外国語三ヶ国語習得の目的を果たせなかったことであった。英語も中学から数えてもう11年になるが、はなはだおぼつかないものだ。例のフランス旅行の時、飛行機の中で美人でグラマーのエアホステスが"Can you speak English?"と尋ねたので"Yes, sure!"と言ってしまった。(元来僕は美人から頼まれるとNoとかNonとかNichtとは言えないタチである)するとこの美人はやおらその分厚いクチビルから機関銃の如くペラペラと異国語をはじき出して最後に“Would you please translate?"と来た。何を言っているのかチンプンカンプンだからめちゃくちゃに小さい声で手短かに『夕飯はパンだ』と通訳した。そばの奴の言によると細々としたメニューを言ったらしい。こんな苦い経験があるので英語はどこかの英会話へ通い、仏語は通信教育,独語は文献をと健気な決心をした。仏語は秋から会話に通って1年続いた。英会話をと思って新聞広告から探し出し興善町のルーテル教会へ通うことにした。原、遠山、嶋北がメンバーであった。教会といっても小さなもので、暗い電灯の下であまり陽気な雰囲気ではなかった。長崎を去るときには立派な教会になっていた。教会は儲かるらしい。アーサクライド氏という若い牧師である。この時、大柄で、ちょっと長崎離れした妖しい魅力をたたえていたグラマーが三菱商事のM嬢であった。この人とは何かしら不思議な縁のめぐり合わせで妙なところでひょっこり会うことになる。彼女と最初にデートしたのが6月20日(土)である。4月、5月と金はたんまりあるし暇もあるし(見習甲は定時で帰らねばならないという都合のよい規則があった。)旅行気分なので会社へは汚い格好でノータイ作業服,作業靴で通勤したが一たび夜になると風呂に入って鬚をそり洗濯のノリの香もすがすがしい白いワイシャツ、気に入りのネクタイと着飾ったベストドレッサー振りを発揮して夜の浜の町へ出勤する。この頃開拓したのは本石灰町、銅座のあたりでヴイとか並木とかレッドシューズなどへふらふらと入っては200円の白タクで夜の1時ごろご帰還するのが常であった。

5月10日 長崎へ着てから初めて女の子と合ハイに行った。合ハイなどは学生時代が最後でもう出来ないものと思っていたがあにはからんや、これを最初の華やかな幕開きとして2年目つまり技師1年生24歳の時の連続4週間合ハイの記録樹立まで続くのである。この最初の合ハイのリーダはどうやら英坊こと岡部であるらしい。どこでどうなったのかわからないが、ヒデボウ(檜原註:正確にはヒデボン)は合ハイといえば必ず顔を出し、暇になればダンスホールに通う東工大電気卒にはとても見えぬ御仁である。この時は稲佐山に登った。女の子たちがうまい弁当を作ってきてくれた。これが旨かった。東京から持ってきたウクレレを持っていったがあいにくひどい雨にあった。このウクレレの芸は最後まで役にたった。芸は身を助くとはよく言ったものである。

最初の5月の連休がきた。この頃はまだ同期生も思い思いの行動をするのが多く僕は洗濯に追われていた。愛車を売った金の一部で秋葉原で記念のSONY FM TR-9を買ってもっていたが、このラジオは予想外に音色がよく休日の心を慰めてくれた。二階のベランダから見る夜の長崎郊外は素晴らしく霧にけむる稲佐山のテレビ塔がロマンチックでセンチメンタルでちょっぴり孤独なムードをかもし出すのであった。学生時代の悪友連からはしきりと手紙が来るので返事が忙しかった。懐かしいものではパリで世話になり、理学博士の称号を得て帰国した神戸製鋼の岡田(健)さんからもらったものである。この人とはのち神戸の神発へ試験研究で出張した際、2年ぶりに再会して自慢話をきかせていただいた。この人も独特の風格である粋人である。
5月8日 一年上の村樫さん、松田さん、西村さんに連れられて西村さんのオースチンにのっかって白鹿でおでんをおごってもらった。村樫さんは慶応工学部機械科卆で直系の先輩に当る。身の丈6尺あまり。体重30貫を超える堂々たる巨躯を利し、斗酒辞さず、こめびつなら最後まで飯を食い最後にゲーとあげる特技がある。通称ターザンと云い酩酊するとその大きなアゴのヒゲを人の額にこすりつけゴシゴシとやって悦に入り、ブルブルと唇をふるわしツバをかける隠し芸があるが、一面気が小さく蚊に驚いてイスにつまずき丸いメガネと前歯をこわした繊細な神経もある。
松田さんは慶応の政経を一番で出た秀才で中肉中背、色あくまで白く柔らかなウェーブのかかった頭髪と柔和な眼差しは佐田啓二そっくりだと飲屋の女の子たちにもてはやされる。ある席で女性から聞いたところによると私がこんなに思っているのに松田さんたら知らん顔している。じれったい人。せつないわ。とこぼしていた。西村さんはバレー部公式審判員の肩書で入ったという説もあるが、ぶよぶよしてくさい靴下をはく身体に似合わず運動神経も音楽的センスも中々一流である。経理部計算課という職場なので17、8才の若い女性に囲まれていていたって気が若く忘年会では若い女の子をうしろにずらっとならべて「シボン、シボン」とコーラスを入れさせ自分はセシボンを歌うのだとフキまくっていたが、25才の春(S41)とうとう女の子に口説かれてオトウチャンになってしまった。この結婚式には遠くはなれていたので、同じCM出向の中安(甲南卆で英ちゃんの直属の後輩、長船の同期)と共謀して二人の愛の夜を祝うプレゼントしたらまんまと図にあたり相模原で中安と二人でほくそえんだ。更に追打ちをかけるように西村夫妻が新婚旅行から帰る頃を見はからって鶴岡八幡宮より出産祝を送ってもらったところこれは大そうよろこばれたらしい。白鹿へ行ったのはこれが最初で以後ちょくちょくお世話になるが、この店は白鹿本店と銅座店があり、冬のオデンはうまい。酒のサカナも一流品であり雰囲気もよく、まず上の部類に属する飲屋であり、銅座店へは造船のオエラ方が常連である。シマちゃんやフジちゃんを引きつれたママさんはいい人で、ママさんの娘さんは資生堂につとめているとか。とうとうデイトし損なってしまった。

長澤は慶應の法律科を出た長船で唯一の大学同期生である。少々マスクが甘すぎるが、ぽちゃぽちゃとした男前は、女にしかわからない魅力があるらしく、純情な乙女からお話したいことがありますとか、クリスマスおめでとうとか、手をかえ品をかえた付け文をされる典型的なモテルタイプである。蜜蜂はその鋭敏な嗅覚でハチミツのあり場所を探し当てるそうであるが、女にもそんな特殊嗅覚があるらしい。とにかく女の気持ちは分からないことが多い。彼には汽車で知合って口説き落とした婚約者がいるが、この頃はバー”並木”によく通っていた。しかし案外固いところがあり、美しき婚約者に操を立て、並木のママさんをして『男らしくない人』と言わさしめた美男子である。


●逢引き
5月の連休が終わった頃から第一期黄金時代が幕開きする。この頃は後期の実習で例の川上、神野と共に機械検査課でタービンブレードかなにかを一日中眺めてくらしたが、川上が風邪とか称してよく病院へ通うので、ある朝のこのこと、ついて行った。何でも前の年は耳鼻咽喉科の看護婦に凄い美人がいたとかで前年の見習甲が耳鼻咽喉科へ門前市をなし通ったという話がある。川上は内科へ入ってしまったので、待合室で待っていたら向う側の眼科に可憐な看護婦さんが入っていったのに気がついた。年の頃なら17、8。伏目勝ちな眼と蕾が咲き始めたような初々しい雰囲気。真っ白い制服。僕は何のためらいもなく眼科のトビラを開けたのであった。どこを悪くしようかと思ったが、こんな時には不思議と閃きが早く、結膜炎ということで見てもらった。白魚の様な細い指、整った小さな唇、清純そのものの容姿は、まったくうっとりとしたものだった。三回目位から持前の人なつっこさで何だかんだと親しく口を利くようになり、彼女が夜間大学に通い、ドイツ語を勉強していることもわかった。こんな時に僕はすぐに義侠心を発揮することになっている。ドイツ語の辞書を貸してやると約束して翌日もって行った。こんなことから恋が成就するのである。今度の日曜日に交通会館で逢おうねと約束した。
この日は5月末といえどももうかなり南国の暑さを感じさせる陽気であった。6時半に逢った。デイトというものはいつもそうだが待つ時間がえらく長く感じる。これは生まれて初めて逢引した頃もそうだったが、遠い将来、腰がまがったベテランになってもそうだと思う。遠くから何となく落着き払った足どりで、お待ちかねの女の子が向うからくるのを見ると本当にホットする気持ちは何とも云えない。僕は車には自信があるので夜のドライブとしゃれこんだ。ブルーバードSTDで走っていると折りしも途中から煙るような雨が音もなく夜のヴェールから降りて来て鋪面を濡らしはじめた。この頃はまだ土地カンがなかったから一番わかりやすい稲佐山へ登ることにした。車というものはまったく良い雰囲気になるもので窓を打つ雨を払うワイパーは単調に続き快いエンジンの振動が伝わってくる。彼女が頼もしげにうっとりと僕の横顔を見つめているのが良くわかった。そもそも僕は左から見た時の顔が一番よいのである。男らしく引締まった健康そうな顔の一端に何となく孤独なかげりがやどっている。そんなニヒルな一面があるのかも知れない。左下に展開する長崎湾と長崎市内の町あかりはまさに百万ドルの夜景である。しっとり濡れてぼうっとかすんでいるテレビ塔。メルヘンの世界とはこんなものだろうか。頂上近くで車をとめた。今度は右側に長崎湾がひっそりと横たわっていた。かわいらしい灯火をちらちらさせながら遊覧船が走っていた。『ほら、あそこにも船がいるよ』と左手で示したとき何気なく彼女の肩にふれた。その途端、彼女はビクビクッと電気に打たれたように震えるのがよくわかった。僕は思わす彼女の顔をのぞきこんだ。するとますます下を向いてしまった。思わず知らず、僕は左手を肩に廻してぐっと抱き寄せた。カーラジオからは甘く低くラテンのリズムが流れていた。甘くやるせなく、そしてうっとりとすべてを忘れるようなひとときであった。胸のふくらみが大きく息づき、かすかに香る黒髪が時々ゆれていた。小さな嗚咽で僕ははっと我に返った。彼女の瞳には涙が一杯だった。『ごめんね』とあやまった。『ううん、そうじゃないの』といって、また僕の胸に頬をうずめてしまった。(著者注:私の記憶にはこんな甘い想い出はありません。何かの間違いだと思うのですが、原文のママとしました。)

この時の実習は製品のバラツキに関してであったが、正規分布とか二項分布などを勉強したかったのでKEIO先輩の弥永さんに推計学の本借りたが、朝のバスに置き忘れてしまった。このバスは昭和寮から始発の雲仙観光バスであるからすぐに見つかろうとは思ったが、ちょっぴり心配であった。ところが幸か不幸か持つべきは悪友とか。一緒のバスにのっていた川上が、車掌がすごい美人でありその名前まで忘れずに覚えていた。彼はこういう事の記憶はまことによいのである。同じ木の下に雨宿りするのも何かの縁。まして遠きて近くは何とやら。その日はそわそわして帰ると、さっそく風呂に入り着替えて交通会館に駆け参じた。案の定、忘れ物は届いていた。そこはそれ悪友の入知恵があるから、チョコレートを売店で買って名刺をつけ、彼女の名前をちゃんと書いて遺失物の係りのオバハンに、この人に渡してくれと頼んだ。そのオバハンはけげんそうな面持ちで、何故車掌の名前まで知っているのかと狐につままれたような質問をする。『いいから、いいから。ホンの御礼のシルシですから』といったら、『それじゃ、ちゃんと届けますから安心しなさい』とさも納得いったような顔になった。やはり長崎の人は親切だと思った。しばらくして、手紙がきた。『あなたのような義理がたい人は、きっと白髪の品のよい中年の紳士だとばかり思っていましたが、私より五つしか年上でないのにびっくりしました。お食事のお誘いありがとうございます。お受けしてよいのかどうかあまり厚かましいので恥ずかしいのですが、やはり一度ゆっくりお話ししてみたくなりました。どうぞよろしく御願いいたします』という文面であった。残念ながらこれは不発に終った。当日都合が悪いと電話がかかってきて、他日を指定されたが、その日はこっちが予定があるなどで自然消滅してしまった。この種のことは最初が肝心で、しかも最初の2、3回が花なのである。

5月21日(木) 先週の日曜日稲佐山へ行った合ハイのメンバーがコペンで集団逢引をした。何ていうこともないがやはりしないよりは面白いものだ。帰りは丸菱呉服店へ送っていった。この子は浜の町でよくちがった男の子と歩いているのを見かけた。さてこの時のメンバーもそうであるし、後の合ハイもそうであったが、相手は殆ど活水短大の女の子であった。これは長崎の女子大は活水と県立の二つしかなく、活水の方がよく遊びダンス好きで昭和寮生に都合の良い意味で開放的であったからだ。 このコペンの席上長大マンドリンクラブの券20枚を一人の女の子から頼まれてうっかり承知してしまったがそこはそれ転んでもただでは起きない方であるから電話をきいておいて翌日会社からさっそく電話してその日にアーケード内メゾンド仔馬で逢うことにした。券などというものはその種類を問わず案外売れるものであり特に赤尾とか森棟などは何でも買う鴨であった。 なにしろこの連休明けから6月末にかけては五棟二階には、北村を筆頭として前原、田中、赤尾、森棟、村岡、中安、長沢というその道のつわ者が揃って腕を競っていたのだから、あたるを幸いばったばったの勢いであった。

北村はその躍進めざましく、39年多しといえども一頭群を抜く実績を作りあげた。それほどの男前とは思えぬが持前のずうずうしさが受けて広い階層に亘り女性票を獲得した。平和公園の裏でおまわりさんに職務質問されたり、ナイトクラブ午前0時でボーイに注意されたり、資生堂の女子寮に一人で押しかけ、パンティやブラジャの干してある部屋で一人彼女の帰りを待ち受けたりするなど誠に第一人者貫禄十分の猛者である。

前原は北村と同室の208号室。鹿児島出身とは想像出来ない色白でやさしい顔をしており、女性的な猫撫声を出すので柔道の有段者には見えぬ、すんなり伸びた肢体と虫も殺さぬような眼鏡ごしの柔和な眼差しに見つめられるとアマ・プロを問わずぞっこんまいってしまうらしい。大和観光株式会社またの名キャバレー新世界によく通いホステスの名刺20数枚が柱に貼ってある。女の子の方から誘われることの方が多いらしく夜になるとりゅうとした背広に着替えてあわただしくでかける紳士である。とにかく二人部屋のメンバーは会社の厚生課の方で組合わせたものであるが、奇妙に硬軟両派にわかれるのであるが、この部屋と4階の410号石崎、江原家、408号檜原岡部家は典型的な留守部屋であり、特に、208号室はそのさいたるもので前半戦の電話の回数はとびぬけていた。特に北村などは寮の明松さんが電話の取次に困り、北村の部屋の前で帰りを待っていたこともあった。何でもこの時は、北村を頼って女の子が泊まらせてくれとの電話がかかってきて、往生したのだそうである。

田中は九大時代に習い覚えた怪しげな英語を巧みにあやつり異国人につけこむ特技にたけているが、彼は見習甲時代に知り合いそのまま交際を続けゴールインも間近いという彼女がいる。そんなところを見ると純情そのものであるが、深夜彼女の家にデイトの約束の電報を打って彼女の親にこっぴどく叱られたこともあるらしい。前のヒタイにかなりの風化浸食作用がみられ生活の苦労をしのばせるがいたって無邪気なもので彼女の一言一言に一喜一憂するハイティーンみたいなところもある。


赤尾は大阪外語大卒という肩書もあってバタ臭い顔と濃いヒゲの持主で3ヶ月賦で買った三菱クール電気剃刀の刃がかけてしまったという話がある。彼は長崎へ来ると一年発起して浜口町のダンスホール“タイガー”に通いつめ、雨の日も風の日も休まず連続19日間精勤記録を樹立した。この記録はその後も破られていない。あまりの熱心さにある日のこと村岡がついていったら、赤尾は大年増のダンサーを相手にブルースを大熱演していたとかで、男の業の深さにいまさらながら恐れおののいたという話がある。かれの英語は男性的なゴツゴツした感じがありいうならばどこか田舎の方言をしゃべっているのではないかと思われる。


森棟と村岡は同じ東大の船舶科卒業であるが、かなりその趣を異にするところがある。森棟は便所のそばの207号室の住人であり、その偉大なオチンチンで世に知られている。これは風呂で同室の白石が見つけたらしいが、この白石はそれ以後コンプレックスに陥り、いや太さが問題ではない。硬さこそ全てであると結論を下しトランジスタラジオを見事にぶらさげることに成功したという立志伝中の人物である。


森棟は学生時代にグリークラブに属しテレビに出たりレコードに吹きこんだりしたことがあるらしくそれをネタにNBCの女の子にモテたかモテなかったとかの後日談がある。独特の猫背ブルースと気のない仕草のかたりかけが女心を微妙に捕え女の子がのぼせ上がってしまう。これも巨根の功徳と思われる。この森棟と対称的に村岡はキザとイカモノ喰いが売物であり、真赤な蝶ネクタイをつけ、棺桶に片足つっこんだような大年増を口説くので有名である。そのダンスはオーソドックスで知られ持前のキザッぽさが噛み合って自治会館、グランドホテルのホールではきわ立った存在となる。そんな彼から判断すると彼の部屋の乱雑さはとても想像出来ない。あまり酒に強くないが、好きなことは天下一品で前後不覚になって御帰還し新聞紙とゴミと吸ガラが異臭を放つベッドにもぐりこむのである。
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岡田
大山
森棟
前原
田中
成富
長田
内田
長澤
南條
中安
白石
北村
赤尾
村岡
佐伯
清水
吉田
二階の人員配置図(全階の詳細は中安氏データ参照のこと)

●喫茶店
5月26日 英会話の帰りに喫茶店めぐりをしていた。三軒目の銀嶺に入ったら、嶋北と神野が可愛い小柄な女の子と一緒にビールをぐいぐいと飲んでいたので、びっくりした。酒に酔った真っ赤な顔をしている神野は、ゴツイ身体をした九州男児であるが、模型飛行機を楽しむ無邪気なところがある。嶋北は、同じ高校だったことがあとでわかったが、硬派に属する御仁であるので、その組合せが面白かった。
5月30日 実習教育の後期講習の終講式が稲佐の記念会館で挙行された。この日は白鹿で三田会の歓迎会があった。平戸小屋の内田さん、昭和寮の弥永さん、松田さん、村樫さん、長澤それに僕だった。弥永さんは、見習甲時代は有名な暴れん坊で末永部長(当時)宅で酔っ払って座敷の真中で舟こぎの練習をしたとか、昭和寮の五棟が建設された時先頭に立って反対運動を展開し、堀家勤労部長から言質をとり、部長をして泣かしめたというエピソードの持主である。この人は正義感に富んだ几帳面なところがあり、パトカーが二人乗りのオートバイが昭和寮に逃込んだといって、寮のオートバイのエンジンをひとつひとつ手でさわり、熱いものを探していたとき、僕の部屋へ一番に駆けつけ『わるいことは責任をとるべきだ。早く自首しろ』と勧めてくれた人である。結局この事件は川上と小川さんの仕業であったが、学者肌の小川さんが一枚かんでいたので腹をかかえて笑ったものだった。おなじ先輩でも内田さんは本格的な夜の優等生であり、有名なバー”モナコ”の上得意である。内田さんがモナコへ行けば、モナコの女の子はすべて商売ぬきで席に侍り、独特の濃厚なサービスをするらしいが、内田さんは立ち回りがうまいから、後輩に尻尾をつかまれる振舞いはしない。またスタンドバー”ボア”のボーイッシュな洋子チャンなどは、まるっきり内田さんに首ったけでアバタもエクボに見える程である。内田さんと夜の浜の町を歩くと道行く女性は老若美醜を問わず、にっこりと微笑み秋波を送るのである。この人とは勝負にならない。40年春からインドの造船所に派遣され現場監督をしながら、ホテルの近くのインド航空のグラマーなエア・ホステスに命を賭けた恋をしたそうである。長崎の内田から世界の内田へと飛躍したらしい。ジェームス・ハンポンドになる日も近いであろう。

●実習打上げ
5月31日この日で実習が終り、明日から各課へ配属になるというので、同期生54名が本石灰町のキャバレー“フロリダ”を借切って親睦パーティを行った。これは商船大卒の今村さんが幹事をやり。田中(正)が会計で、特別デモ出演として石崎、長沢、大山、長田がバンド出演となっていた。女の子は各層から広く求めたのであるが、不思議と5-6名のグループが多かった。日興證券、活水、勧銀、資生堂など、種々であった。殆どはシロウトさんだったが、一人片隅で妖しげな女性に酌をさせ、踊ればチークダンスというのがパンちゃんこと江原さんであった。

江原さんは、四階の410号室で石崎と同室。九大電気化卒というが、ハンドブック一冊あれば全てわかると割り切り、他の本は一冊もない。寝巻きは汚れるからと冬でもパンツ一枚。もっとも、それもないことがあるらしい。香水を着て寝るあのモンローに似て、男モンローと言いたいが、それほどセクシーな身体つきではない。水泳がうまく、酒はべらぼうに強い。タバコは『いこい』しか吸わない。『大文字』を開拓し、最後までコンスタントに通った酒豪であるが、一時親に意見され金をためて見合いをしたことがある。しかし、その席上で、手くらい握らせてと迫っていっぺんにふられた苦い経験の持主である。この人は、入社の時に世話になった会社の女の子にひとかたならぬ慕情を寄せていたが、気の弱いところがあり、チャンスがなかなかつかめない。見かねて仲に入って縁をとりもったが、こればかりは犬と違って、しっくりはいかない。なんだ、かんだと良縁に恵まれず売れ残り、今年になっても独身である。

江原さんと同室の石崎は、39年きってのスマートなプレイボーイを自任している。首にたらした鎖のペンダントは、下手をすると犬の首輪にも見えるのだが、彼は『太陽が一杯』のアラン・ドロンにあやかっているつもりらしい。彼は奇妙にオバサマにすかれるタイプらしい。母性本能をくすぐる甘い香りがするのかもしれない。

註1:この原文は、出向直後の落ち込んだわびしさをまぎらわすために、一年前のたのしい想い出にのめりこんで、偏見と独断で勝手に書き綴ったものです。キャタの机で書いていました。きわめて主観的で独断的に恣意的な表現が多いと思います。該当する各位殿には、夫々の箇所をご自分の都合のいいように書き換えてください。あるいは、真実のコメントをくだされませ。異見なき場合は、原文のまま『想い出文集』にとじこまれてしまいますので、くれぐれもご留意ください。
註2:この青春日記の原稿はここまでしか記載がありません。これは佐伯さんが発掘して下さった古文書で、初版の素稿というめずらしいもので、当時の青焼きのコピーでありました。昭和39年は6月をすぎてから、高名な『トヨペットグループ』のメンバーとなり、毎晩大文字へ通い、毎晩海水浴へいきました。たしかにこの続編は存在します。キャタで書いた原稿を、長船ディーゼル部の設計用紙に清書しました。林所長宅へのトイレットペーパー・ストームの挿絵を丁寧に描いた記憶があります。長崎駅での襟巻きやトイレットペーパーのたすきがけ挨拶なども書いたような気もするのです。蜃気楼かもしれません。ひょっこり出てきたら、それはそのときで対応予定であります。続きは原典である『長崎絵日記』をご参照ください。そこには日めくりで昭和39年の4月から12月までの毎日が記述されております。

●あとがき●
今日の僕は昨日の私ではない。明日の自分は今日の己ではない。常に未来に生きるのである。企業というものは発展するように宿命づけられていると三菱重工入社の時訓示されたとき、僕はこれだと思った。何がなんだか分からなかった高校から浪人時代、そして遊ぶ味を覚えて、いささか過保護な青春を楽しみまわった慶応大学時代、大人になったのか学生寮に入ったのか自分でもわからなくなった長船時代と自分で選んだ道ではあるが見方によれば運命のいたずらに弄ばされたのかも知れない。大学の自動車工学研究会時代の凸凹珍道中は機関誌に載せたので、ここらで長崎時代の記念碑をと思って取りまとめたのが、この青春日記である。後日縁談の差し障りになるといけないと思ったが、思い出とは甘いことだけしか残らないものであるし、僕は自分以上のことは出来ないからありのまま告白しても良いと踏み切った次第である。登場人物は出来るだけ本名を使うつもりであったが、プライバシーの問題もあるので特に名を秘す必要のあるものは名を伏せたのでその点は何とぞ御容赦をお願いします。(1966年6月29日)

●謝辞と御礼●この古文書の電子化は、[s39kai]篤志家のみなさまの手により入力されました。たくさんのご好意に厚く御礼申上げます。想い出文を登録終了されたお方から順にお願いしたものです。順不同でいいますと、この古文書のp2-4(檜原さん)、p5-7(加福さん)、p8-10(三好さん)、p11-13(大山さん)であります。また同じく古文書の『加福さんの結婚式』は、加福さんと中安さんのお手をわずらわしました。また、佐伯さんには、古文書の発掘やらコピーやら想い出文集フォルダーの全体構築、個人フォルダーへの登録など、お手数をおかけしました。みなさま、熱心かつきわめてはやい対応で、かえって当方があおられました。その他の多くのみなさまからも、篤志入力の申出があり、反響が大きすぎてオロオロ致しました。茲に厚く御礼申上げます。