造船三田会の人たち
長崎造船所には、およそ十五名の慶應出身者がいて、造船三田会なるものがある。慶應出身者というものは、程度の差こそあれ例外なく夜の町が好きであり、底抜けに気兼ねなく騒ぐのであった。教育係長である三田出身の御仁は、歓迎会において自慢の逸物をふりかざし、そこのバーの女の子にフルチン踊りを披露して、一躍スターダムにのし上がった。自工研の先輩にあたる弥永さんは、昨年結婚してすぐに子供が出来たが、どう計算しても十ヶ月十ヶ日に合わない。この人は、独身時代に独身寮の建設にあたり、寮生のリーダーとしてムシロ旗をかかげて会社と闘った武勇伝がある。
春よ春、春南方のローマンス
地方というのものは、どこでもそうらしいが、東京から来た大学出たての独身というとエラク持てかたがちがう。どこのバーでも造船の見習甲というとツケがきく。バーが退けてから寿司でも喰うかというと、かならず気を利かせて一人でくるから、こりゃあたまらない。しかし、そこから先は腕が物をいうのは、どこの世界でも同じであるが、とにかく他の場所より住みやすいことは確かである。女子大は二つしかなく、これがまた、とてつもなくダンス好きと来ている。このダンスがまた曲者であって、東京の学生ダンスなど不必要である。そこらへんのキャバレーと思えばよい。くっついたら離れないで踊り、一曲終ったらハイそれまでよと知らん顔をするのがコツであるから、最初は面喰らったが慣れればこれほど都合のよいものはない。何事も業に入れば郷に従えである。学生の頃は、女の子にやさしくすることがコツだとばかり思っていたが、当地では、むしろ強く出る方が好まれる。「じゃあ、明日どこそこで」とつれない素振りの仕草がよい。稲佐山という素晴らしい夜のデートコースがあるが、ここから見る長崎の夜景は、まさにメルヘンの世界である。宝石をちりばめたような夜空に輝く星、可愛らしい灯をつけながら往ったり来たりする遊覧船、潮風が甘く薫る彼女の黒髪をなびかせるころ、二人は夢の中をさまようのである。こんなことばかり手紙に書いていたので、お前は何をしちょるかと、ずいぶん悪友連に心配をかけたが、世の中はつらく苦しいことばかりであった。だからこそ夢を求め、理想を追うのかも知れない(未完)
同君は、昭和41年東京へ転勤、同時に勤務先も三菱長崎造船所からキャタピラー三菱(株)と変った。原稿を送ってくれた封筒の中に数枚の転居挨拶状があり、同君独特の筆さばきで引越しそばを誂えてあるが、「郵便料金が上がったから、OB会諸氏へは適当にこれを配って下さい」とある。頼みとあらば致し方なし。次ぎに掲げるのは、その挨拶状である。但し、ブルドーザで美女をすくいあげる漫画がここに掲載できないのは残念。(会報編集部)
船のハートに二年間、思えば夢の長崎は、我が放浪の初めなり。今はしなくもたまさかに、親の恩にぞ報いんと、建設機械のハートをば、射止めし事となりにけり。古き馴染みの東京は、今浦島の感ありて、高速道路の素晴らしさ、生れ変わったビルディング、道行く人のせわしさは、生きゆく道のきびしさか。三十までが勝負とは、はかないこの世の定めなら、非力な小生も張り切って、横紙やブル覚悟でござ候。 昭和41年3月 長田 道昭