長崎慕情(セピア色の青春・夜の長崎物語)
長田 道昭
そうでした。「僕の家」でした。飽の浦事務所の裏の山の中腹にあり、昼休みに「皿うどん」をたべたのは、「坊ちゃん」というお店ではなく、「僕の家」でしたね。つい先日、夏目漱石を読み返していたので、混同しました。作業服で、よく通いました。おいしかったですね。カイシャの箱便(弁当のことです。また、誤解されましたか?このところの檜原さんとのメールは、ずーと”ウンコ・シリーズ”でしたから。もう、このシリーズは、4通目でしょうか。よくこの話題で盛り上がります。)は、アルマイトのデコボコではなかったでしょうか。そうですか、そのころ私のいたのは、第2ビルですか。いまの飽の浦事務所の写真を貴社のインターネットで拝見しても、私には、さっぱりわかりません。お互い、あのころは若々しい美青年だったのでしょうなあ。中央研究所の受付けに、大石さんという美人がおられましたなあ。私の指導技師で技師登用記念に「ビスケット型のドッグフード」を食べさせた計装研の磯村さんには、10年くらい前に新田町ビルでお会いしました。「おまえは、悪かったなあ。手に負えなかったよ。」と、いまでも磯村さんは、真面目でした。そうですね、いろいろな思い出が万華鏡のやふにかけめぐります。思えば丁度あの頃は、日本が高度成長期にさしかかり、急階段を駆け登っていたのですね。なぜかわかりませんが、理解のある諸先輩の美風がありました。
佐木隆三氏の回想記のなかに、三菱造船・第一労働組合という名前がよくでてきます。そのころは、まったく関心がなく、ひたすらに夜の中小企業の救済にかけめぐっていましたが、そとから見るとそういうことだったのかと、いまさらながら教えられました。この作家は、当時八幡製鉄所の現場に働いていたそうです。20年くらい前でしたか、ある雑誌で「長崎造船所・設計部の檜原工作部長」という旧知の名前を見つけて、お手紙をしたことがありましたね。このほかにも、なつかしいお名前に、時々出会います。伯國の白石社長のご尊名は、あちらの国から伝わってきました。そういえば、サンパウロ空港で、あの「森田小平治」教育係長殿(そのころの職名は知りませんので、昔のママの呼称であります)に、15年ぶりにばったりお逢いしました。三菱重工は、あそこにおおきなカイシャ(つまり、それから20年後に白石社長が就任したカイシャ)があったのです。「こりゃあ、ナガタ。こんなところで、なにをしとるのか」と、またおこられました。実際、その時の私は、ズタズタのラッパズボンをはいて、ヨレヨレのシャツを着ていました。なにも働いていませんでしたし。メキシコでは、食うや食わずの貧しい旅(それでも名目上は、仕事兼務でしたが)だったので、石崎所長殿に、大層ご馳走になりました。予約なしだったのですが、いまから思うと、ずいぶんとご迷惑をおかけしました。彼は、大きな車にチョコンと乗って、広いお部屋に住み、女中さんをアゴでつかっていました。

火力プラント部というのは、方々へいきますなあ。加福さんが、大分におられたとき、私は、小倉製鉄所にいました。そこで、訪ねていって、奥様の真弓さまとの間で川の字で寝かせてもらいました。加福さんのご実家には、加福さんがいないときにおしかけまして、美酒に酔いしれたところまでは、よかったのですが、その夜、高そうな(実際、それは高級な純絹の)夏布団にお店を開いてしまいました。このとき受けた恩義に報いるため、いまも高槻市にお住まいのオフクロさんには、年賀状だけですが、ご挨拶もうしあげております。中安氏の実家は、神戸市魚崎でした。ここも、彼がいないときに、神戸港祭りを見にゆき、泊まらせてもらいました。美人の妹さんがおられたのであります。武運つたなく、ここでもふられました。青春は、ほろにがい連続でありました。まるで、出ると負けでありました。この家は、先年の神戸大震災で崩壊し、オフクロさんは、いま相模にうつられました。この地震のとき、木原氏に葉書でお見舞いをしたら、「元気。異常なし」とのこと。安心しました。そうそう、三菱コルト販売のために、コルト部隊が編成され、長崎から南条氏が東京へ、ショボショボとやって来たのは、昭和44年ごろでしょうか。訪ねてゆくと、渋谷のうらぶれたキャバレーの裏が、事務所でした。そこからは、きらびやかな夜のお姐さまがたの着替えが、よく見えました。まだ、ふたりとも独身でしたので、目を皿のようにして、めくるめく柔肌のシルエットを、よだれをたらしながら眺めていました。まさか現専務さんとは、思いもつきませんが、みんな人間的だったのです。昭和寮は、すっかりかわってしまったようですね。でも、なにかのときは、見たいなあとも、思っています。そういえば、あのすぐそばの本原の家族アパートはどうなっていますか。中退してしばらく経って長崎へ里帰りしたとき、この家族アパートの誰かのところに泊めてもらい、朝食のおかずは、各階をまわって集めました。誰と誰のところだったか、すっかり忘れました。あらためて、御礼申し上げます。先日、実家の老母の荷物の整理にいきました。今年88歳になりましたが、いまも口だけはいたって達者なのです。「これは、みんなお前のだから」と、大事そうに大きなダンボール箱を呉れました。あけてびっくり、玉手箱。中から、白い煙とともに、昭和寮時代の写真がそのまま出てきました。なにしろ、村樫さんが、丁寧に記録を取ってくれていたようです。そう、そう、村樫さんには、東京で「ブラジルの本」のときに挿し絵の清書を手伝ってもらいました。そうしたら、絵の中の女の子の模様に、ウチのカミサンの名前を小さな文字で埋めつくし、まるで模様のようにした隠し字を書いてくれました。AKAIのオープンリールで録音した「サヨナラ・リサイタル」も、カビだらけで、出て来ました。写真は、あまりにも、リアルすぎるので、困っています。細身のネクタイで、寄り添っている写真がたくさんあるのです。これは、みんな中安というヤサ男の彼女だと、家人に説明しているのですが、いつまでもつか自信ありません。フランス語とか、写真屋さんとか、今度は同室だった佐伯さんの彼女ということにしようと、たくらんでいます。 (終わりそうもないゆえ、これにて、小休止です。続きは、またにて。Have a nice weekend !)