メール長崎回想 (昭和39年)
大山大幹事から依頼のあった見習い当時のエピソードを思い出そうとしているのですが皆様の記憶だけが頼りです。次のエピソードに参画していたと記憶されている方ご連絡を!!
火鉢事件:夜酔っ払って昭和寮に帰り、我々の5棟の入り口に(冬の間にのみ各部屋に設置される)火鉢を積み上げて通路妨害をし、翌日管理人室に呼び出された方は?(加福、三好さん、檜原さんの3人は記憶にあります。車が5人乗りだったからあと.2人は?長田さんは実行犯ではなかったが管理人室で怒られるときにのみ特別参列!) (No.685 2002-9-9 加福氏)
昭和寮5棟屋上プール化事件: 暑いので屋上でシャワーを浴びて水を貯めようと屋上の5箇所の排水口を閉じて水を貯め、管理人から大目玉を食らった方は?(南條さん以外数人どなた?)(No.685 2002-9-9 加福氏)
昭和寮5棟屋上から放尿事件:当時売り出された札幌ジャイアンツと言うビールの超大瓶を買い込み屋上で夕方からビールパーティー。小便のため4階のトイレに行くのが邪魔くさくなり屋上から純心女学院の寮の方向に向かって放尿!先輩から文句が出たのか管理人に怒られたか39会の仲間から「やめて下さいよー」と怒られたか記憶が定かでない。(加福以外に数人どなた?(No.685 2002-9-9 加福氏)
加福さま:屋上放尿事件の作成有り難うございました。この事件にも小生は参加していたのだろうと思いますが、まったく記憶がないのです。従って、誰が参加していたのかわかりません。記憶しているのは、5棟の前の芝生に座り込んで酒盛りをしていたとき、屋上から小便を掛けられたことです。多分これは、われわれに対する仕返しだったのではないかと思います(檜原 勇多賀)
矢太楼女風呂事件:ホテル矢太楼の風呂が男女浴槽の間の隔壁を上れば覗けるとのニュースを聞きつけ実行したのはどなた?加福は同行したが覗く度胸がなく断念した記憶あり。確か誰かが上ったのだがどなた?(No.685 2002-9-9 加福氏) あれは清水のカツドンだと記憶しています。実際彼は身軽で活動的でした。本件は長崎絵日記の檜原さんのコメントでも収録されています。ついでながら、雲仙荘の男風呂と女風呂の境界線には南国情緒をかもしだす大きな椰子の木がありました。38年甲のターザンこと村樫さんは、酔っ払って、私が止めるのもきかず、あれによじのぼり、もう少しで女風呂がのぞけるという時、椰子の木はターザンの重みに耐えかねてポッキリ折れてしまいました。ターザンは折れた椰子の木とともに浴槽に落下しましたが、股間をしたたかにすりむき痛い、痛いと言っていました(長田)
「帰ったぞー」:ドアノックの常習犯は? 夜遅く酔っ払って帰寮し5棟の全部屋をノックし「帰ったぞー」と挨拶?をしていた方はどなた?(No.685 2002-9-9 加福氏)
●そういえば、夜な夜な「今帰ったぞ!」を挨拶にしていた人から私の部屋(205号室)のドアを蹴破られたこともありました。廊下の分電盤のブレーカーを切って停電させるのもいました。女性が部屋まで訪ねてきてベランダ伝いに逃げ回った人、ブルートレインの窓にけしからん落書きを張って駅員にとがめられた人、バイクで昭和寮に逃げ帰ったのはいいが、警察がエンジンを一つ一つ触ってバイクを特定されて捕まった人も居ませんでしたっけ。 (No.687 2002-9-9 大山氏)
●若い頃がだんだんと懐かしくなってきました。あまり公表されていませんが 「計装研究課 ドッグフード事件」 がありました……。主犯 :長田氏、共同正犯 :北村)  よく首がつながったと思っております(No.688 2002-9-10 北村氏)
「208号室美女忍び込み就寝事件」:わたし本人しか知らないと思っていましたが、思い出しました
……。他の仲間も知っているのです。2階の自室でマージャンをしていたら、突然ベランダからわかい女性が入ってきたのにはおどろいた。廊下側のドア−ではない。男の独身寮なので管理人さんからきびしく女人禁制をいいわたされていたのである。したがって正式な入り口から侵入は出来ない。そこで一階からよじのぼって、ベランダから忍びこんだのである。一階から雨樋をよじのぼってきたと思われる。その美女は息が切れた様子もなく、『北村さんのお部屋は、お隣ですよね』 と静かな口調で尋ねたのであった。マージャン卓を囲んでいた四人は、あまりの突然の出来事に、しばらく口もきけず呆然としていた。歌舞伎に出てくる安珍清姫の故事に見る如く、鐘楼にどくろで巻きつき中の男を絞め殺す魔性の女の澄んで清らかな瞳であった。その夜、北村がどうなったかは、だれも知らない。ああ、長崎の夜は更け行くのである (No.688 2002-9-10 北村氏)
桃色騒動 :北村氏の桃色騒動は、逃げ回り以外にも水子不動へのお参りとか看護婦さんもありましたねえ。昭和寮では、お彼岸になると、お墓に花と供物を持って水子供養にいく貴お勇姿がありました。隠していたようですが、いや別にかくす様子もない堂々たるお姿でありました。現在私が通っている浜松町駅から歩いてすぐの芝増上寺の裏手には、水子供養のお墓がずらっとならんでいます。なぜか忠臣蔵のこの季節になると、ここもロウソクがにぎわいます。この世のことは、夢のまた夢であります。人間をながいことやりますと、いろいろありまよねえ。もって、合掌。
看護婦さんの件は、実習で一緒だった川上氏が三菱病院の夜中にひそんで行き、ベッドで奮戦するも清純可憐な彼女に先に腰をうごかされ、あえない最後をとげた武勇伝の前後だったと思います。川上氏は敵前討死、私はこれとは別件で眼科美人に独語辞書をさしあげただけでおわりました。ところが北村氏は、これまた全くちがう筋の看護婦さんですが、いざその時になると、アルコールをしめした脱脂綿で先っぽをきれいに洗浄、ふき清められたのであります。三人三様の戦果でありますが、それぞれの個性が出た業績でありました。過渡応答や伝達函数をハイブリッド計算機で解析しながら、林氏をふくめて、こげな実習実践報告を毎日毎日北村氏から聞いておりました。実に有意義でかつ刺激的でしかも学究的な計装研実習でありました。またたくまに昼がすぎ、また夜が来て、あらたなお勤めに出たのであります。原口課長や相楽さんや磯村さんがどう対処してよいやらと、理解を超える見習甲であったようでした。もっとも、本人たちは、昼間は大真面目に悩みながら、林氏とおなじような職種に従事しておったのでありました。人間は悩むからこそ進歩があるのであります。
Dog Food:北村氏のメールを台北のホテルで読みました。懐かしいですね。あれは一年目の技師登用合格記念御礼のお菓子がドッグフードで、それを一番沢山おいしい、おいしいといって食べたのがわが恩師磯村さんでした。あの磯村指導技師殿とは、時を経て田町のビルで二度ほどお会いしました。仕事外です。お前は悪かったなあと、いまでは磯村さんはわらっていましたよ。あの時のお嬢さんは、なんというお名前でしたっけ?あの食べ物は、今流にいえばダイエット食品。身体にいいのです。ですから磯村さんも長生きしています。Dog Foodは、いまお店で見ても、人間さまのビスケットにそっくりで、よく出来ていますねえ。お犬さま用ではなく人間さま用でも、後年東欧ポーランドでの打合せ時に、遅い昼飯でお客が配給してくれたビスケットは、日本のドッグフードより、よほど見栄えがわるうございました。ビスケットの本場イギリスでも、オフクロの味を加味したのは、あのときのより、相当格好も味も劣りました。あのときの庶務のお嬢さんは、ふっくらした人でしたが、本当にお腹を抱えてわらっておられました。あんなにうつくしい笑顔を見たのは、はじめてでありました。『これは記念です。どうぞ、これを食べてください』といったつもりはなく(強弁ですが)、単にそれとわかるように流しに置いておいたら、気を利かして、あのお嬢さんがみんなに配ってくださったのでありましたねえ・・・。

長崎駅ホーム:長崎駅のホームでいままさに新婚旅行でインドへでかける内田ご重役の窓に悪さをしたのは、あれは落書きではなく、産児制限用の男性具を貼り付けたと記憶しています。たしか小平治閣下が鉄道公安委員にもらい下げにきてくれたようでした。(長田)
●中安さんが長崎を離れるとき、駅のホームの陰で泣いていた和服の女性が居たが、その女性は今の奥様ではないそうです。奥様は、「さくら」の寝台の中安さんの下に寝て居られたそうで、その後、奥様から「銀座に出てこない?」と中安さんに電話があり、出ていったら結婚することになったのだそうです。ちょっと巧すぎる話ですが、驚いたことに、仲人に長田さんが選ばれたそうです。これは、我々には初耳でした。「それで、よくぶち壊れなかったナ」と野次った人がいました。「その話、文集に載せろ」と言った人もいました。「駅のホームの陰で泣いていた女性はどうなったのか?」という質問の回答は、「小浜の方に嫁いでいった」とのことでした。その後、出席者が一言ずつ中安さんにコメントしましたが、昭和寮時代に中安さんと一緒に何かをしたという話があまり無いのが意外でした。ご本人の話では、仲間のどのグループにも属しておらず、専ら女性のみを相手にしていたそうです(檜原氏)
中安氏の長崎:実際彼は乙女心をうまくつかむのに長けていました。それゆえ、美女年鑑も充実とみております。彼の親父さんは私の高校の大先輩。妹さんは高嶺の花の美人。寝台車の彼女の件での橋渡しの時は、持てる色男の行状をばらさぬやう、柄にもなく緊張しました。実際、中安氏と北村氏は、攻め方は相当違いますが、その道ではいずれ劣らぬ双壁でありましたねえ。現在の奥様は(昔も今もおなじお方ですが)、彼の華麗な業績はまったくご存知なく(おそらくあなたの過去など知りたくないわとのことでしょう)、彼との愛一筋であられます。そういえば、あんな短い期間だったのに、わかいころの松亭の好子さんとも面識があったとか。好子さんといえば、南條氏もチラリホラリと顔をのぞかせます。わかい頃の好子さんの写真がないか問合中です。でも、出てきたら加福さんに悋気されそうであります(長田)
●ある人は寝台車で袖ふれあったのが縁となり、ある人は奄美大島への船酔いで恋ごごろが深まったりと逸話は多いようですね。これはご本人さまより、記念公開がいいようですねえ。
新婚ストーム:出澤氏の奥さまより『ニンニクおろし、リンゴおろし、ジンギスカン』ストームがかたられました。すると次々にその頃の若々しいお話がよみがえってきました。白石氏の奥さまが新婚旅行帰りのその日の新居で、出迎えの駅からおなじタクシーで帰宅して居座った悪童に酒・肴を強要され、、布団袋からなけなしのつまみを取りだし、そのまま狭い台所からずっとでられなくなったとか。このストームには、南條氏も同行していますね。このほか、ストームにおびえて実家に逃げ帰った新妻事件も複数のようです。資生堂の上品なチャームガールだった岡部カアチャンが、あまりのストームに涙とともに、実家に飛んで逃げ帰ったのはダンナの独身時代のツケを払わされたようなものでした(ツケを払わないで済んだ東京組もいますが)。檜原カアチャンによれば、檜原家ではストームにそなえて布団はひかず、寝巻きにも着替えずの生活だったとのこと。それでも子供は出来たのでした。これらは、記録があれば面白いのですが、一揚げ3,000円事件と同じで、大きな事件のは、記録も写真もないようですね。この一揚げ3,000円事件は、大きな出来事でしたが、花束などを持って何回も御見舞などの誠意ある措置で丸くおさまっておりました。
●活水合ハイのお礼にと、森棟氏から仕切役の女性(現出澤夫人)に『ヴィバルディのレコードとなんやら』というキザな贈り物をしたとか。いまも大事に取ってありますとのお言葉をいただきました(長田)
水洗の水不足:あの夏は、ひどい渇水でした。喫茶店は休業。風呂屋も休業。飲み屋だけはやっていました。オシボリが出たのです。今は水飢饉は聞きません。むしろ時々洪水や鉄砲水の噂をききます。水事情は改善されたようですが、この頃はひどいものでした。東京も長崎もひどい水不足でした。水洗トイレで水がなければ、どうなるか。それは悲惨しかありません。トイレには水の入ったバケツがあり、用を足す毎に各自がそれを使って流すのでありました。ところがそれをしない不届きな輩がおるのであります。すると次のヤツも面倒なので、その上に重ねるのであります。次々に黄金の塔が出来ます。ひどいときは五重塔であります。こうなるとバケツの水では流れません。トイレの前の部屋だった大山氏や白石氏は、こうやって香しい夏をすごしました。
幻の巨根伝説:だれが最初に言出したかは定かでないが、もはやこれは伝説というより定説になっている。会社から定時に(見習は定時に帰らないといけない美風があった)、専用バスで寮にかえり、夜のご出勤の前に風呂に入る。大きな共同浴場である。ある日、隣りに森棟がすわった。なんだ、かんだと雑談しながら、風呂桶のお湯をザブンとかぶったら、となりの森棟が『熱い。あちーいよ』と言う。風呂でおかしなことをいう。これくらいは当たり前の温度なのにである。もう一度お湯をザブンとかぶったら、今度は『あっちちぃー』と飛びあがったのである。よくみると、腰掛けた風呂イスから、巨大な逸物が股間からぶらりと床までたれさがり、床にながれるお湯が直接先っぽの敏感な粘膜を刺激していたのである。根元からの曲がり、イスの高さ、そして風呂床での仰臥長さとあわせると、まことにそのご本尊は、稀にみる大きさであり、祠に祭るべき荘大さといえる。あまりの大きさに同室の白石は劣等感にさいなまれ、幸せな結婚が出来ないのではないかと短小に悩んでいたが、しばらくして『大事なのは太さや長さではない。堅さである』と得度し、めでたく夫婦生活に入れたという(この項は伝聞による。真偽はさだかでない)
トヨペットとおまわりさん:楽しく読ませていただきました。三話の中で第一話だけは記憶にないので私は同行していないと思います。写真入がいいですね。あのクラウンが1500CCとは知りませんでした。6人乗りはこの頃ないですよね。また番号が最高にいいですね。87−39文字通り花咲く車だったですね。また39会の華だったような気がします(加福さん)。
●そうでした。「ハナサク」でしたね。次の車「コルト1000」は「長崎そ6279」でした。ある日、佐伯さんから「ソーローニナク」ですねと謂われ悔しい思いをしました(檜原さん)
●来年の39周年記念大会に関連して、長澤さんより「記念に文集を作成しては?」という提案がありました。皆さんからEメールで原稿を取り寄せて編集していただければよいと思います。39周年記念大会の当日、文集を配布出来れば最高です。また、「当日、想い出のエビデンスを持ち寄ってください」という加福さんの説明に対し、「エビデンスなんか無いよ!」という意見が有りましたが、これは、古い写真とか、寄せ書きなどを意味していると解釈すればよいでしょう。まだ時間があるので、これらのエビデンスも出来れば文集の中に織り込んで、当日配布できると素晴らしいと思います。 (No.683 2002-9-9 檜原さん)
●可能ならば、関連情報、あやめチャンや昭和寮の池下さん(水着を縫ってくれたおねえさん。それを出沢氏が試着したなあ)とかも盛りこみたいですね。保険のオバちゃんにモテモテの長沢氏の武勇伝なども…。小平治閣下の真っ裸劇場は、出沢氏が描かれるのでしょうか(長田)

●きっかけとなった連絡(檜原さんのメール以外の主なもの)

ログ番号

題     目

発 信 者

日 付

568

39周年記念行事(その一)

大山 敏夫

2002-07-15

611

39周年記念行事(その二)

大山 敏夫

2002-08-02

683

長崎例会から  (その二)

檜原勇多賀

2002-09-09

684

記 念 文 集 原 稿(その一)

長田 道昭

2002-09-09

685

39周年記念・文集(その二)

加福 正也

2002-09-09

687

39周年記念・文集(その三)

大山 敏夫

2002-09-09

688

39周年記念・文集(その四)

北村 政雄

2002-09-10

722

文献コピー

佐伯 栄一

2002-09-19

石崎安良氏メール:皆さんのメールは懐かしく拝見しています。先刻より、溜まっていた皆さんのメールを拝見しておりますが、看過できぬメールを発見。1016日付け貴信です。カサブランカのカフエの主人リックほどではないにしても、小生も遠い昔のことはほとんど忘れてしまいましたし、インターネットに接続せぬため麗しの女性の写真を見ることもできませんが、関連のメールに目を通した結果、秋の広島工場見学会時の出来事と推定。さすれば、彼女をデートにかっさらったのは、残念ながら、小生に非ず!そんな訳で、白状文はなし、又、白状文を創造する想像力もなし。悪しからずご了承願い度く。ところで、彼女をデートにかっさらったのは誰?告白文をお待ちします。( 1018 石崎安良)
石崎さま:カサブランカの物憂げなカスバは、フランス語圏ですが、残念ながらまだ雲古をしに行っていません。いつの日か、アフリカの地でアンニュイな影をやどす女の足跡を追いたいと夢をみております。でも、暑そうですねえ。お申越しの広島バスガールの件です。あの日は、私は二日酔いで小平治閣下にどやされていたので、記憶はおぼろげなのです。中安氏か石崎氏のどちらかです。昼間の市内案内のバスの中で彼女の肩を抱きながら、『どこそこのなんやらがうまい』と市内案内をしていたのは石崎氏その人です。その延長で、たしか市内を仲良く案内してまわっていたと記憶していますがねえ…。中安氏だったのかなあ。いずれにしろ、どちらかのおにいさんですよ。時効デスガネ…。石崎氏は、このほかにも長崎絵日記の中で生き生きと活躍されておられます。是非、ご高覧くだされませ。
加福正也氏メール:大山さま。二話とも楽しく読ませていただきました。第二話の「スリ」の話の前半を読み、近くの席でいちゃいちゃしていたアベックが後半で主人公になり女性のほうが大山さんと何かあったのか?と期待して読みました。上手い文ですね。(加福正也)
大山氏メール:そうです。今ならアベックの一組や二組何ということないですが、当時、暗いがらがらの映画館の中でいちゃいちゃしているのは当時の基準でいえば明らかに「不良」です。当時まじめな勤労青年たる私としてはそんな不良の傍からは早く離れたかったわけです。それにしても、あのときもし身に覚えのない何かがポロッとポケットから出てきたらどうなったでしょうね。多分、真っ青になって、事件の顛末は意外な方向に向かったかもしれません。松本清張ならこのような日常の事件を一寸ひねって題材にして面白い小説に組み立てたかも知れません。古い写真を探していたら、故岡田信一郎君の写真がありましたので添付します。後日、アルバムに登録しておきます。メモによると、写真は「1966.8.1高浜海水浴場」とあります。1966年(昭和41年)といえば入社3年目に当たり、会社にも街にも慣れて一番気ままに寮生活を謳歌していた頃です。このときだと思いますが、砂浜で女性が腹ばいになって、背中に日焼け止めオイルを塗ってくれと言うので、誰かうれしそうにいつまでも塗っていたのは。長田さん、こんな場面がありませんでしたっけ。
大山さま:写真では、みんなわかいですね。肉がついてないですねえ。なつかしいお顔の面々でした。真中のは南條氏ですよね。ずいぶんとやせていましたね。あれから無駄な美食で太ったと思われます。人のことは、言えませんが…。美女の背中に日焼け止めクリームかオリーブ油かバターを塗ったのは、どなたかは忘れましたが(あれはカツドンだったと思うのですが…)、そういう機会に恵まれれば、いまでもすぐにおなじことをすると思います。
江原さんメール:加福さん、皆様:いろいろ登場させて頂いている江原です。殆ど忘れた時期の話では有りますが、皆様の投稿に刺激され、いろいろ思いが去就しています。加福さん原稿の、宿舎は、佐伯さんの言われる通りであったと思います。木曜日の男になったきっかけは、町に出かけると必ず立ち寄った好文堂書店で、私の入社時に面倒を見てくれた女子社員(当然好もしく思っていた)に会って、会釈をしたのを鋭く見咎められ、それが木曜日であったことから、再会を期して、木曜日になると町に出かけ、町に行けば、必ず大文字となったという風に覚えています。本題の火鉢事件の動機は、檜原さんが、一同を車から降ろしたら、そのまま何処かに走り去ってしまい、暫く待ったが帰ってこず、檜原さんが帰った時に、妨げになるように、門から、5棟まで、寮内の道の中央に火鉢を並べることとしたもの。翌早朝まで、火鉢は道路中央に並んでいたが、寮の管理人の皆さんが、車出勤者の妨げになるので、5棟入り口まで、戻して呉れていた。檜原さんが、火鉢を避けてどのように帰ったか、全く分からない。寮管理人の皆様には大変な迷惑を掛けました。
三好さんメール:加福正也様、火鉢事件」懐かしく拝見しました。入社時の集合教育時の宿舎は代々木駅前から左に下って共産党本部前を通り過ぎた交叉点近くにあったと記憶しています。名前は東京青年文化会館?定かではありません。 ところで小生の身代わりに管理人室へ出頭された長田会長にあらためてお礼を申しあげます。ほかの4人とは職場が違っていたので退社時間がずれこの件は後で聞きました。轟峡のキャンプでは滝壷で泳いではみたものの水の冷たさに足がつり往生したのを思い出しました。(三好章夫)
佐伯さんメール:加福さん、こんにちは..。力作の登録有難うございました。小生は古い記憶がほとんど曖昧となり、確たることは言えないのですが、集合教育の宿舎は(原宿の?)日本青年文化会館?ではなかったでしょうか。 よく思い出せないのですが、代々木会館はその後出張で何度か泊まりましたが2段ベッドは無かったみたいです、改造したのかな?(de佐伯栄一)
●『加福さんの結婚式』の挿絵は、まだ電子化していません。それよりは、加福さんの新婚時代のあまい写真を貼り付けませんか。長崎絵日記に見るように写真が語る事実は迫力があります。加福さんの鼻の下のながい写真を貼りましょうよ。(長田)
●実は新婚当時の甘い写真は一枚もないのです。一昨年長崎から大阪に転宅する時に眞弓ちゃんが「これからは過去にしがみついて生きるのではなく未来を見つめて生きたいね」と荷物を減らすのが目的で写真を処分したので保管されておりません。長田さんの挿絵を是非挿入ください。(加福正也)
佐伯さんメール:弊「想い出」に対するレス有難うございました。3枚目の写真に反応があるものと予想しておりましたが、モールスの方でしたね。 あれは出まかせで意味はありません。考えすぎて眠れないと食欲が落ちて痩せますのでご注意願います。このメールの署名欄のモールス信号は意味があります。
佐伯さま :昨晩寝る時にあっと気がつきました。ひらめきました。佐伯さんの点滅信号には、愛の交信言葉がひめられているのですねえ。あれは高級な伏字でありますね。昔はモールス信号の解読コードを持っていましたが、今はどこかへしまいこんで見当たりません。船のSOS(Save Our Ship)ですら先年廃止になったのですから仕方ありません。ですから本当の意味はわかりませんが、どうやらこんなところではないでしょうか。これが私の暗号解読であります。秋ふかしですねえ。
佐伯さん : ・−・−−・−    『愛しているよ』
彼 女   : −−−       『了解)』
佐伯さん : ・−・・・−・−・   『すぐ結婚して)』
彼 女  : −−−       『了解)』
南條さん:「仲居さんひと上げ1000円の顛末」の原稿有り難うございました。さすが事件後の顛末について詳しく解説されており、改めて事後処理に当たられた皆さんの尽力に感謝した次第です。胴上げの場面は、小生は横から見ていたので良く覚えていますが、初めは彼女は天井に向かってポンポン弾んでいましたが、そのうち横から誰かが強く突いて軽い彼女の身体が横に飛び出し、そのまま右肩から畳の上に落下しました。考えてみると、この事件が39会の団結力を高めることになったのかなと思います。(檜原 勇多賀)
●林さんへ(加福さんのメール):超大作(泰作?と命名すべき)昭和寮時代を想いだし懐かしく読ませていただきました。私は大学時代に麻雀は卒業したと自分に言い聞かせ昭和寮では参戦しませんでした。(本当は博才がないので勝てっこないとあきらめていたのですが)研究部に配属された皆さん方は私とは人種が違うと考えていましたので一歩下がって見とれていたような気がします。だから森孝子さんと声を交わした記憶もありません。俺もテニスをしていたのに!!同じ学卒なのに彼女は見習甲じゃなかったのですね。名簿に載ってなかったので。
●林さま:お懐かしゅうございます。あの年は、柄にもなく学究的な計装研で磯村さんに丁稚奉公しておりました。林さんの名筆によるママの見習生活を北村氏とともにおくりました。『私の処に寄ってくるN氏やK氏との話は柔らかい内容や夜の話となり、その話にのめり込んだ。その結果色好みで野卑で女に危険な男との名誉ある評価を戴いた。持って瞑すべし』と回想されていますが羨ましい。
銀の玉  いつか成りたや  金の玉       ( 初句:林 泰道 )

金の玉  しぼんでたるんで 打ち終わり    ( 返句:長田道昭 )

金の玉  いまも元気に   七変化       ( 連句:北村政雄 )

あのころ、計装研の女性は、長澤をみるとうるんだ目になるのに、ドッグフード事件後は、私の顔をみると、プッと吹出して、下を向いて笑いをかみ殺していました。妙な持てかただったような気がします。(長田道昭)
●南條さま:コルト部隊奮戦記をお書きになりませんか。必要あれば久武にも書かせます。なにもないと書きにくいでしょうから、当時脇から車は売らずに貴販売店の女の子にのみ興味のあった私から副作用的な背景と裏事情を書いて、貴個人フォルダーに登記しておきました。弊雑文をご笑読の上、主文の起草をよろしくお願い申し上げます。
江原さま:月見の宴、なつかしいですねえ。木原氏は、艦艇設計でしたね。あこがれの彼女は、お酒には寛容でしたから、あんなに素直にあやまる必要はなかったのですが、それが江原さんの純情(あのころの)の賜物。貴重な青春のひとこまでした。なつかしいお話をありがとうございました。オカアチャンやあの可憐な娘さんは、この男江原の純情物語をご存知ですか?(長田)月見の宴のころは私も昭和寮にいたのですが初耳でした。江原さんほどの男性をふった女性に会ってみたいと思いました。悪酔いをされることはないと思っていましたが。木原さんと先週久しぶりに会い昼飯を一緒しましたがこの話は聞かされなかったです。(加福氏)