京都四条 月岡サヨの小鍋茶屋

この話は、京都の歯科医 柏井 壽さんの著書「京都四条 月岡サヨの小鍋茶屋」のあらすじです。



幕末の京都、四条烏丸の東南に位置する仏光寺の北向いに清壽庵という古寺が有って、その境内に「小鍋茶屋」が在った。茶屋の経営者は近江草津の旅籠「月岡屋」の娘で二十三歳の小柄な月岡サヨで、独りで切り盛りしている。

昼は行列のできるおにぎり屋、夜は一日一組限定の鍋料理屋で、サヨが作るしゃも鍋を目当ての客も多い。

慶応三年の三月のこと。耳慣れない土佐弁を話す背の高い慈姑頭 ( くわいあたま ) の侍が、伏見の「菊屋旅館」の女将フジの紹介で、夜の予約を取るため「小鍋茶屋」を訪れた。

その侍の話す土佐弁は聞き慣れないため判り辛かったが、三月十八日の夜しゃも鍋を食べに一人で来ると言って帰って行った。

サヨは、近江水口の大きなしゃも肉と錦小路の「三浦屋」で小さな土鍋を手に入れ、準備万端整えて土佐の侍の来るのを待った。

三月十八日、「小鍋茶屋」にやって来た土佐の侍は、優に三人分は有るしゃも肉をぺろりと平らげ、通い徳利に入った酒も瞬くうちに飲み干して、お代わりの酒を注文した。

「お侍さんのお名前は?」
「楳太郎や。ウメと呼んでくれ」
「ウメさんは土佐から京に出て来て、何の仕事をしてはるんどす?」
「わしか?わしはのう、この日本っちゅう国を洗濯しよう思うて、京に来よったんよ」

そのような会話の後、帰り際に土佐の侍は、
「これからは、ふた月に一ぺん来ることにしよう。次は五月、そん次は七月っちゅうふうに、陽の月の十八日に来るき」
と言って帰って行った。

土佐の侍は約束通り五月、七月、九月の十八日に「小鍋茶屋」にしゃも鍋を食べにやって来た。
そして、九月十八日の夜の食事が終わったとき、
「サヨ、悪いけんど次ん日にちを十五日に変えて欲しいんじゃが」
「十一月十五日は、あいにく先約が入ってますねん」
「十五日はわしの誕生日やさけぇと思うたんやが、先約がありゆうんなら、しょうがないわな」
と言って、土佐の侍は笑顔を残して去って行った。

ところが、十一月十六日の朝に、いつもサヨが醤油を仕入れている蛸薬師町の「近江屋」から連絡が有って、急な取り込みが有ったので、とうぶん商いは出来なくなったと言ってきた。
約束の十一月十八日、土佐の侍は「小鍋茶屋」に姿を現さなかった。

慶応三年十一月十五日、三条河原町の土佐屋敷の近くの「近江屋」の二階で、土佐の勤皇志士坂本龍馬が何者かに襲われて命を落としている。
サヨがあのときの土佐の侍の申し出を受け入れていたなら、その侍の運命は変わっていたかも知れない。

 

(挿絵:いずみ朔庵)


 

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