昭和寮の思い出(長崎よか所)
中安 省太郎
1.加福さんとの再会(昭和39年4月1日)

 加福さんと最初に会ったのは、国鉄「住吉駅」(神戸市)の近くの下宿屋へ学友を訪ねて行った時である。

 その後、どこへ就職されたか解らなかったが、昭和39年4月1日三菱造船(株)本社へ出頭し身体検査を受けた時に、良く似た人がおり、声を掛けたらやはり「加福」さんであった。

本社教育の時配布された「若き学校卒業者の為に」(岡野保次郎語録)

 10日間の本社教育を受け、急行「雲仙」に乗り24時間掛けて長崎駅に到着。

 長崎造船所はこの日「ストライキ」があり、会社へ出るところ、駅からバスで昭和寮へつれて行かれた。

 寮では205号室に入り、ルームメートは「大山」さんと言う電気技師で非常に勉強家に思えた。私が夜遅く帰っても、部屋で本を読んでいるか、何か調べ物をしているかあまり町には出ない人であった。

見習甲部屋割表(昭和寮昭和39年)

 当時三重工合併の話があり、組合活動盛んな長船では頻繁に「ストライキ」が行われており、職場へは行かず、稲佐会館で社員教育を受けていた。

 現場実習の最初は、艤装工場で溶接作業を教わり、組の人々と親しくなりボースンの自宅に呼ばれ大いに歓迎され、「見習甲」は将来「おえらいさん」になられる方だと言われ良い気持ちになった。

 次は鋳造工場の実習で、スクリューの鋳造を見るだけで何も手伝う事も出来ず、何か小物を作りたいと頼んだら、何か人形の型を作ってはと云われ、町に出て「ミロのビーナス」を買ってきて、鋳型を作り、ステンレスの溶解を流し込んで作り、その後やすり・バフを掛けで仕上げた。上質のステンレス製のため38年経った現在も錆び一つ出ず輝いている。

 

2.長崎の人(昭和39年6月)

 現場実習が終わりいよいよ経理部機械計算課へ配属された。卒業以来久しぶりに「IBM電子計算機7040」に再会した。

 ある日浜の町を歩いていたら、キーパンチャーの岩永さんに会い、どこか美味しい「コーヒー」が飲めるお店はありませんか」をきっかけに「富士男」へ案内してもらい「コーヒー」を楽しみ、次のデートの約束を得た。

 次のデートには彼女以上の美人の友達と2人で、こちらも寮生と2人で平和公園で会った。長崎はエキゾチックな美人が多く、神戸を小さくしたような街で非常に住みやすい所と今でも思っている。

 その後彼女は、機械計算課の38年入社の人と結婚した。

 

3.ヨットの思い出(昭和39年8月)

 船が好きで造船に入社したおかげで、良き友を得る事が出来、又田中さんから時津へ幾度か誘われ、大村湾でヨット(スナイプ、ディンキ)の手ほどきを受け、ヨットを操る面白さを教えて貰った。この技術はキャタピラー三菱でシステム開発の外販事業を始めた頃、顧客のSONY(株)の部長から江ノ島ヨットハーバーへ誘われ、クルーザー操船のスキッパー役を見事にこなしたのに気に入られ今でもお付き合いしている。

 

4.登用論文のこと(昭和39年9月ー40年2月)

 新入社員は1年間の見習期間中「見習甲」と言う身分で、登用論文を作成し、所長の前で発表し合格しなければ、正社員として登用されないので、下帯を締めなおして頑張った。

 小生の卒業した甲南大学理学部の学長は物分かりの良い人で「理学部の卒論ほど実験費に金が掛かり、出来あがる論文はろくな物がない。従って理学部の学生は、就職後、実社会で得たことがあれば、理学部へ提出すれば良い」よく言っていた。 三菱重工へ提出した「登用論文」を理学部へ送った。

 7月に経理部機械計算課に配属になり、2ヶ月の経理部教育を受け、小生の希望を受け入れてもらい、立神にある船殻工作部工務課にお世話になることになった。

 竹下工務課長、六尾企画係長の指導の下、線表作成ベテランの常田さんから、生産計画の「いろは」を懇切丁寧に教えて貰い、「船殻工作部工務生産計画の機械化」(86頁)という 大登用論文を40年3月に林所長以下おえらさんの前で発表し技師として登用された。

 工作部へ行った時、S1598タンカーの起工式(64.09.30)があり、愛機「オリンパスF」で毎日建造経過を撮影し、進水式当日(64.12.07)には、早朝4時からの進水体操から始まる進水作業に参加し、10時の進水式は、船底横から、船が船台を滑りおり長崎湾へ無事浮かぶのと空になった船台は今でも瞼に焼き付いている。又建造進捗のスライド写真と登用論文は見習時代の宝物として、大事に保管している。

 この期間下記3船の進水式が行われた。

  1964.10.26 龍田丸(S1610) 90,000DW

  1964.10.27 NYK  (S1601) 90,000DW

 1964.12.07 DIANE (S1598)

   S1598タンカー(起工式・進水式)
     

 

5.トヨペット・クラウン(昭和40年7月)

 檜原さんから脇本が譲り受けた観音開きのクラウンは脇本と解体屋で少しましなタイヤに交換し、交代で使わせてもらった。

 横に彼女を乗せ、稲佐山、茂木、高浜、野茂岬等、長崎近郊へのドライブを大いに満喫した。

彼女の家は立山にあったので、諏訪神社の近くに車を止め、県立図書館の横を通ってよくおくりとどけたものである。

 

6.長船出向第一号(昭和40年10月)

 重工とCATが合弁で38年に創立した「キャタピラー三菱」の業務管理部長から「わが社に来ないか」の熱いラブコールに惑わされ、又長船経理部長の田中寿さんから是非行ってくれと頼まれ迷っている内に、組合委員長から飽之浦の組合事務所に呼ばれ、出向するなと言われ2,3日事務所にかんずめにされた。会社からは「行け」組合からは「行くな」の板ばさみに合う内、経理部長から「早めに長崎を出て、自宅神戸でゆっくりしてキャタピラー三菱へ11月15日に着任する様」との話があり、11月1日水の浦本館2階にて林静所長より辞令を受け取った。

 39会の皆様には、東亜閣で送別会をしてもらい、帰り、浜の町通りを誰かに肩車され、大騒ぎしたので浜屋の横にある交番から警官が飛び出してきて注意された事は今では良き思い出になっている。長崎へ行き、浜屋の前を通る度、思い出す。2002年10月長崎へ行った時、昔のままの交番があり、若いおまわりさんが二人勤務していた。

   送別に貰った色紙


 

7.寝台特急「さくら」

 長崎を発つ日は、快晴で午前中立山の彼女と別れを惜しみ、午後昭和寮に戻り、身支度をして、長崎駅へ寮生に送られ行った。

 駅には39会の面々が見送りに来てくれ、万歳三唱で送られたが、ホームの後ろで立山の彼女が和服姿で見送りに来ていた。

 16:00「特急さくら」はホームを離れ,一路東京へ向かった。

 寝台特急の寝台は上中下の3段向き合わせ6人が1BOXで、私は中段、下段に若き女性が乗っていた。

 発車後、まもなく東京へ出張の遠山さんが来て、少し話していたが、彼女に遠慮したのか、行ってしまった。寝るまでの間、くだらない話をして時間を過ごした。 翌朝、彼女と食堂車でトーストとハムエッグの朝食を取り、彼女は東京へ、私は三宮でおりて実家へ帰った。

 数日実家で休養を取り、キャタピラー三菱へ着任して数日後、さくらの彼女から「銀座に出てこない?」の電話があり、交通の便の悪い相模原では出るに出られず今回は仕事に専念した。

 

8.昭和41年長崎への里帰り

 8月の夏季休暇と年休を使って、長崎へ里帰りし昭和寮の一室を根城に、立山の彼女、さくらの彼女等旧友を尋ね廻った。 このとき長田さんと同室になり一部行動を共にした。詳細:長田著「昭和41年長崎への里帰り」参照。

さくらの彼女が現在の家内であるが、帰省中彼女の実家に行き「お母さん」の美しさとしっかり感にほれ、「娘を貰うなら母を見よ」との古人の言葉を思い出した。又、彼女は勉学のため小田急相模原にいる姉を頼って上京して来たのをきっかけに付き合いを始めた。

 

9.新婚家庭へご招待(昭和43年夏)

 昭和43年1月長田道昭さんに仲人役を頼み家内の姉の家へ「結納の品」を届けて貰い、2月に結婚した。当時キャタピラー三菱は米国CAT社の生産部門の機械化を導入中で、計算機のプログラム作りに、徹夜の連続であった。

 ある日、長田から「大山君が出張で東京へ来るので、奥さんの手料理を食わせろ」との強引な注文があり、新婚家庭へ招待した。座間の我が家へ来てくれたのは、長田、大山、南條(三菱自動車へ応援派遣中)の3氏、料理は長崎の「皿うどん」であった。

大山さんが写真を撮ってくれたが、大山いわく「フイルムは会社のものだから、汚職になるのかな?」と家内を笑わせ、それ以来我家では「汚職の大山さん」と言われている。

   汚職の写真


 

10.写真集 URL

    A.活水の文化祭(美女年鑑)


    B.長崎の思い出(misc)


    C.事業所見学(64.10.07〜10.11)

見習甲他場所見学班編成表